「ドリフタ−ズ」はコメディアン・グル−プの名ではありません。「漂流者達」の意味です。
私の学生時代、池袋の文芸座でみた映画に「流されて」というフランス映画があった。船が遭難し上流階級の女性 と下層に生きる男が一つの孤島で生きることになる。いわば社会性を剥ぎ取られた男女に恋愛感情が生まれるわけであるが、二人の恋愛の終局は二人が救助される、つまり再び以前の社会性を身に纏わなければならなくなった時にやってくる。セクシャル・パセシック・アドベンチャ−・スト−リ−であった。
「漂流する」という不可抗力的な体験は不運な体験とはいえるが、そのため図らずも異国の社会で日本に居たならば絶対に身に纏うことができなかった知識や体験を身に着けて帰国した人もいる。こうした場合、ある意味で彼の人生はとても幸運な「めぐり合わせ」の中にあったと言えるかもしれない。

日本は海洋国家であるから、当然漁にでたまま漂流しそのまま行方不明となり、多くは魚の餌となった 人々も少なからずいたであろう。
特に江戸時代、大量輸送の中心は海運であり、弁才船などが悪天のために 漂流し後は潮と風の運まかせで海の藻屑と消え去った者達も相当多くいたことが推測できるのである。
ところで江戸時代に記録を紐解くと日本の民間人による海外渡航例が、「記録に残るもの」で百数十例あるという。
 「記録に残るもの」という意味は、数ヶ月か1年あまりの漂流の果てに外国へ漂着し、それでも無事に帰還できた事例を指している。
漂流し生存したとしても日本に戻ってこない限りは記録に残りようもないからだ。
つまり現地に骨を埋めた漂流者の数は相当数に上るだろう。ただ帰還に成功したものには、ある共通点がある。記録によればこうした漂着船の積荷はほとんどが米で、それを食べ繋ぐことによって生存できたわけで、他の貨物を積んだ船や漁船の場合、生還率はかなり低かったといえる。
 ところで日本に無事戻ってきた漂流者の中でも外国での生活をした者は江戸時代の鎖国政策の中では危険人物である反面に貴重な情報源であった。もし彼らが高い語学力を得ていたとすれば、彼らが鎖国から開国へと向かおうろする日本で極めて高い稀少価値をもつ宝のようなものであったろう。
名もなき漂流者がその稀少価値ゆえに歴史の舞台にひきだされるのであれば、その広い意味での「漂流体験」はまさに彼らにとってめぐり合わせという他はない。
 漂流者ということだけならば大黒屋光太夫など数人の名前がうかぶのであるが、光太夫は確かに女帝エカチェリ−ナに謁見するという機会にめぐまれるものの、漂流が歴史に与えた影響という観点での「めぐり合わせ」の人として私は二人の人物を思い起こす。
一人はジョン万次郎、もう一人はジョセフ彦である。
この二人は、どのような歴史的出来事に遭遇しその歴史的役割をはたしたのであろうか。

ジョン万次郎は1827年土佐の国中浜谷前の漁師の次男として誕生した。 1841年14才の時、正月5日足摺岬沖で漂流する。
 10日間漂流して南海の孤島・鳥島に漂着し仲間と143日間生きながらえ、たまたま立ち寄った米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されホイットフィールド船長の保護を受けた。
漂流仲間とはホノルルで分かれ一人捕鯨船員として太平洋を渡った。16才で船長の故郷・マサチューセット州フェアーヘブンに帰航した。そして万次郎はオックスフォード校、バートレット専門学校で英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受けた。
24才の時に沖縄より上陸し帰国した。取り調べの後解放され26才で土佐藩の士分にとりたてられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。このとき後藤象二郎、岩崎弥太郎などが直接万次郎の指導を受けている。
1860年33才の時には批准書交換のための使節団一員として艦長勝海舟の「咸臨丸」に乗船した。  この時万次郎は教授方通弁主務として乗船した。この船には、26歳だった福沢諭吉も同行し共にウェブスターの英語辞書を購入したという。万次郎の流暢できれいな英語に米国民は驚嘆したという。
アメリカで万次郎はミシンを初めて日本に持ち帰っている。1860年42才の時明治政府の命を受け開成学校(東京大学)の教授となり最高学府の教壇に立った。そして1898年、東京・京橋の長男中浜東一郎医博宅で72才の生涯を終えた。
彼の数奇な運命に導かれた貴重な知識や、技術、体験は幕末から明治にかけての近代日本の夜明けに、日米の友好を始めとする国際交流の礎に多大な影響を与え幾多の業績を残した。
なお、現在でもホイットフィールド家と中浜家は子孫の交流が続いているとのことである。

ジョセフ彦は、1837年播磨町古宮の漁師の家に生まれ幼名を彦太郎といった。1850年13歳のとき遠州灘で暴風に遭い52日間太平洋を漂流した。彦太郎ら17名はアメリカの商船オークランド号に救われ、1851年2月にサンフランシスコに到着した。
 サンフランシスコで彦太郎は、子供がいなかった税関長サンダースに可愛がられワシントンや二ユーヨークに連れていかれや電信・ガス燈・汽車などを見て驚き、ワシントンでは1853年に時の大統領ピアースに謁見するという幸運に見舞われた。彦太郎は、アメリカ大統領と正式に会見した「最初の日本人」となった。
その後、彦太郎はアメリカの地で教育を受け1854年にキリスト教の洗礼を受け、ジョセフ彦と名乗るようになった。
 祖国を離れて9年ブりの1859年21歳のときに初代駐日総領事ハリスに伴われて日本に帰国した。ジョセフ彦は横浜にあるアメリカ領事館の通訳として幕府との間で日米修好条約の締結や幕府の遣米使節の派遣などに奔走した。攘夷浪人から狙われるようになり一旦アメリカに戻りリンカ−ン大統領と会見する栄誉にも恵まれた。
1862年10月に、再度日本に帰ったジョセフ彦は、横浜で再びアメリカ領事館の通訳の仕事を始めその後、横浜にある外国人居留地で貿易商に従事していた。
ちょうどそのころ、リンカーン大統領の名言「人民の人民による人民のための政治」を残した南北戦争の激戦地ゲティスバーグでの演説とその反響を載せた「ニューヨークタイムズ」を目にし、このことを一瞬にして国民に知らしめた新聞の威力に感嘆し、日本での新聞の発行に挑み始めた。
 民衆にも知る権利があるといっても、情報は幕府に厳しく監視され取材活動は全くできない状態であった。他方攘夷派の浪士からは危険人物とみなされ、命を狙われた。
 しかしジョセフ彦は「事実を正しく民衆に伝えることそこに感動が生まれる」という強い信念のもと、命がけで新聞発行へと突き進み、1864年6月28日、わが国民間による最初の新聞「新聞誌」を創刊したのである。

ジョン万次郎もジョセフ・彦も漂流中に米国船に救出され、出会った人々にも恵まれ米国で教育を受けるという厚遇をうけた。
海を漂った名もなき彼らが想像もできぬ人生の展開の末、時代の分岐点で重要な役割を果たしたことを思うとき、そこに「神意」が働いたとは感じませんか。