外国各地を細菌やシダ類を求めて旅した南方熊楠の生涯に多くの人が羨ましさを感じるのではないだろうか。資金面でも和歌山の実家の家業が成功して比較的潤沢であった。
この南方の人となりを知るにつれ、私はまったく別の世界に生きたもう一人の人物を思い起こした。 それは将棋の世界の小池重明である。二人が似ているとはいえないが、いくつかの共通点がある。
小池はアマチュアの将棋界では無敵を誇り、「真剣師」つまり金をかけて将棋をさす仕事を生業とした。
あまりに強く勝負する相手がいなくなり「新宿の殺し屋」ともよばれた。
プロと勝負をすることになるが、酒を飲んで対局に現れそれでも勝ってしまう。
酒や女性におぼれて窮地に立たされたあげく、自分を庇護してくれる立場の人間から黙って金を借用しては逃亡をくり返し、結局はプロ・アマの棋界から永久追放された人物である。
肝臓を悪くして44歳という若さでこの世を去った伝説の「真剣師」である。
植物学・細菌学で業績をあげた南方は、好きなことをして生きた自由人なのだが、小池ほどの破滅型ではなく、前半生はアメリカ・イギリスを放浪するも、後半生は、郷里の神社合祀反対運動などを主導し「公」にも生きている。
将棋の小池と細菌の南方、二人の共通点は互いに無位無官で生きたことと、それぞれの世界のエスタブリッシュメントに果敢に挑戦してけして負けなかったこと、である。

1867年、南方は和歌山市で金物商の家に生まれている。小さい頃より新聞がすらすらと読める神童ぶりは近隣の評判になるが、好きな勉強以外には見向きもしない性格のために学校の成績は必ずしもふるわなかった。
東京にでて共立学校に進学し高橋是清に英語を学んだ。東京大学予備門にはいるが、中学の頃より熱中した菌類の研究に余念はなく頻繁に小石川植物園に通ったりしていていた。しだいに学校の勉強は疎かになり試験には落第し、病にかかり、ついに親もほおってはおけず南方を故郷・和歌山に連れ帰った。
故郷の山野で菌類集めをして健康が回復するにつれ、世界を駆けまわって宇宙の神秘を究めたいという夢が抑えようもなく広がっていった。
親をなんとか説得し1887年、ついに南方はアメリカに旅たつことになる。南方の乗った船には新島襄が密航者としてもぐりこんでいた。南方が到着したサンフランシスコでは、拠点を移した日本の自由民権運動の関係者がおり、南方もその発刊誌「新日本」を購読しした。
ミシガン州の農学校で学ぶが喧嘩の巻き添えとなり、自分がその責任を負って退校する。この頃から資金も途絶えがちになるが、どうにか金を工面して菌類を求めてフロリダにやってきた。サ−カス団でアルバイトなどしながら欧米の本を貪るように読み、珍しい菌類を見つけては採集し標本として研究をつづけた。
そして同じ和歌山出身で横浜正金銀行のロンドン支店長と手紙のやりとりをしたことがきっかけとなりロンドンに渡る決意をする。
ロンドンでサ−カス団の片岡という男と出会ったのが大きな「めぐり合わせ」となる。片岡は南方の博学ぶりに感心して彼を知人である大英博物館の中世美術部長に紹介する。
南方は大英博物館にいわば嘱託として自由に出入りすることになり、イギリスの一流科学雑誌「Nature」に寄稿した内容が新聞で大きくとりあげれれていく。その内容は当代一流の学者を唸らせ、次々と学者を論破しく。無位無官の南方のそうした姿が、ちょうどアマチュア棋士小池がプロの棋士達を負かしていく姿と重なる。
「Nature」寄稿が機縁ともなり、折りしも大英博物館で西洋の思想を吸い取ろうとしていた孫文と出会い朋友となっている。
そういえば雲をつかむような革命を志し各地で資金集めをしていた孫文もいわば放浪の人でもあり、南方と孫文、それぞれ目指すところは違っても似たもの同志の心の交流であったのかもしれない。
しかし激し易い南方は、大英博物館で日本人を蔑視するイギリス人と喧嘩となるなどの数回トラブルを引き起こしている。このあたりもトラブルメ−カ−の真剣師・小池重明と重なる。
また南方の和歌山の実家の家業にも翳りりが見え資金面でも苦しくなり帰国を余儀なくされる。
帰国後には郷里・田辺において、西園寺内閣による「神社合祀令」反対運動の先頭に立つ。彼が戦ったのは、奇しくも大学予備門で同期であり、当時内務省神社局局長となっていた水野という人物であった。
神社整理令によって紀州のいたるところの神域の森林は切り倒さたまま、その後に植樹されることもなく災害の危機にさらされていた。そして何よりも土地の産土神を奪われた村民の心も荒廃していたのである。
そして神社合祀を推進する県使の講演会で、南方は乱闘事件を引き起こして警察にしばらく収監されている。
将棋の小池もやはり直情径行の破滅型の人物であり身を滅ぼす結果となったが、南方の方は晩年は柳田国男との出会いなどもあり郷土・田辺で学問の世界に没頭していった。
南方は、太平洋戦争勃発よりまもなくして75年の生涯を閉じている。

あるノンフィクション作家は、民族学の世界で全国を旅して歩いた宮本常一を評して「旅する巨人」と呼んだが、宮本は財閥である渋沢敬三より支給された必要最小限の資金を元にした計画性のある旅の人生であった。
それに対して、南方は菌類を求めて気の向くままアメリカ・イギリス各地を安ホテルやアパ−ト、サ−カス団などを転々と旅している。その姿から「放浪する巨人」とよびたい。