小説を書く人々の作品に、作家が経験した住環境や経歴が大きく反映されているのは当然である。例えば少し変わった環境で暮らせば、通常人があまり考えなくてもよいようなことに思いをめぐらせ、それが作品にも色濃く映し出されてくるのだと思う。
例えば基地の町・佐世保に生まれた村上龍や三沢に生まれた寺山修司などである。村上氏の場合、革命と暴力をテ−マにした小説が多いのも頷ける。しかし寺山氏の場合は基地体験はさらに本源的で、母一人子一人の家族で育ちながら、母親が基地で働き米兵の相手をしていたという事実が、彼の心にとてつもなく大きな蟠りを生み、彼の作品世界を哀しく縁取っているのである。
居住環境ばかりではなく職業経歴も作家の作品に大きな影響を与えていることと思う。作家として成功する前には職を転々とする人も多く、それが彼らの創作の肥やしになったり原動力にもなっている場合も多く見られる。
いつもカゲキな格好で知られる直木賞作家の志茂田景樹氏の場合などは、作家になる前に20以上もの職業を転々としている。
ところで推理作家の森村誠一の場合は東京赤坂にあるホテルニュ−オーオタニでホテルマンとして10年間働いたことが、彼の作品世界に大きな影響をあたえていることは間違いない。
彼の推理小説第一作の「高層の死角」というホテルの密室殺人を題材にしたものであったし、代表作の一つ「人間の証明」も彼が働いていたホテルのすぐ側の清水谷公園(大久保利道遭難碑も立つ)が殺人現場となり、その近辺のホテルが舞台の一つとなっているのである。
(実はこの公園は私の大学時代の散歩コ−スであったため「人間の証明」はしっかり読みました。)
 私が森村氏のケ−スが特に面白いと思ったのは、ホテルマンとしての仕事の中で、もっとも直截な形で先輩作家が使用している創作材料にアクセスしている点である。
つまり森村氏が作家として成功を収めたのは、森村氏の努力もさることながら、ホテルマンを職業とした彼の「めぐり合わせ」がものをいった面もかなりあるような気がする。

森村誠一のホテルマンとして仕事がどのように作家の創作の中で生かされているのだろうか。
第一に、ホテルは冠婚葬祭・睡眠・休養・会議・商談・発表会・展示会・逢引など様々な目的をもった人々が集まる場所であり、また仕事・勉学・受験・就眠・食事・性など人間の様々な局面に対しての対応を要求される場なのである。
特に森村氏が働いたホテルの場合は海外からも多くの人が宿泊し、人間をよく知るという点では格好の場所であったといえる。
仕事が嫌で作家を目指そうとしていた森村氏であったが、フロントに立つ森村氏に二人の作家が原稿をあずけるという僥倖に出会う。その作家とは当時の流行作家の梶山李之氏と笹沢左保氏であるが、実はホテル・ニュ−オ−タニのすぐ斜め向かいに文芸春秋の新社屋ができたために多くの作家とフロントで接することが多くなったそうである。
特に当時の流行作家の梶山氏の場合には、ホテル内で原稿を書いていたために、出来上がった原稿を編集者に渡す前にフロントで森村氏にあずけるのだそうだ。
そういうわけで森村氏が彼らの最初の読者になったのだという。 さらにカゲキなのは、森村氏は合鍵を使って梶山氏の部屋に入り、机に山積している参考文献や資料を見て、市販している同じものを買って、梶山氏が当時連載していた週刊誌の次回の原稿を自分でも書いてみたのだという。
ほとんどの場合、プロの作家にはかなわないと思ったそうだが、時々自分の原稿もいい勝負していると思ったこともあったという。
最後に、森村氏がホテルマンの仕事が嫌いだったことである。夜中に誰もいないフロントに立っていると足の底から体が腐っていくような感覚をいだいていたという。ホテルマンを人と思わない客も多くいて、屈辱で胸が煮えたぎったとエッセイ「鉄筋の家畜人」の中に書いている。そういう中、二度とホテルマンの仕事に戻るまいと原稿用紙をうめていったのだという。
森村氏の企業小説などに何か怨念の響きがあるのは作家のそういう職業体験からくるのであろう。

最後に、森村氏はこのホテルマンの仕事を通じて、社会派推理小説の大家・松本清張の知遇を得ている。
サラリ−マン生活の鬱憤を原稿にしたら、出版社に勤める同窓生の目に触れて本になった。
その本をたまたま見たのがホテルを定客であった現代俳句協会会長の横山白虹氏である。
実は横山氏は福岡県小倉の開業医で、松本清張がどん底の貧乏生活をしていたころ、出世払いで盲腸の手術をしてやったことがあるらしい。
この横山氏が、松本清張に会わせてやろうと、東京下高井戸にあった松本邸に連れて行ってくれた。
松本清張はほとんど森村氏には目をくれずに横山氏と話をしていたが、森村氏が清張のホテル描写で間違ったところを指摘すると、松本清張が森村氏にフロント・システムとホテル全般の取材を約2時間したのだという。
その時、森村氏は清張の取材の徹底ぶりに学んだという。
森村氏は作家の条件に従来からいわれている文章力・表現力・構成力に加え取材力を挙げている。
さて森村氏は本格長編推理小説「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞するが、その選考委員には松本清張氏が名を連ねている。
松本清張氏の脳裏にあの時のホテルマンの姿がきっと蘇ったに違いない。