1970年代半ば山本浩二・衣笠祥雄とともに広島カ−プ全盛期に3番打者として活躍した外国人選手にホプキンスがいた。
1977年には引退後は選手時代から勉強を重ねていた医者の道を志しシカゴの医大に再入学し、整形外科医になりその後60歳で転身しミッション系大学で聖書学を教え始めたという異色の経歴をもっている。
現在カリフォルニア州ローダイ市で病院を開業している。
広島カ−プ時代にダッグアウトでドイツ語を勉強していていると、他の選手からお前はドイツ語を学んでどうするのかと尋ねれた。ホプキンスはお前たちこそ40過ぎたらどうするのだ、俺は今から医者になると答えたという。
広島カ−プ在籍時には、試合前に広島大学で実験を行っていたことや休みには医学書を読むなどしていた。
あまりこういう生き方は日本では歓迎されない気がする。一つの道に励むことが仕事で信頼をうる生き方であるともいえる。特にスポ−ツ選手ばかりでなくチ−ムプレイの場合はそうである。
しかし、ホプキンスにいわせると変わっているのはむしろ日本ほうかもしれない。

外国ではメダルをとるような一流アスリートが、医者や弁護士、作家などになるケースが結構みられる。 1990年代前半神戸製鋼でラグビーをプレイして負け知らずのウィリアムズは、実は弁護士でもある。
1950年代頃のヤンキースのブラウンは、心臓を専門とする医師でもあり、1930年代にゴルフでグランドスラムを達成したボビー・ジョーンズは、工学・文学の学位を持ち、かつ弁護士でもあった。
1980年にオリンピックで金メダルをとったイタリアの陸上選手メンネアは、弁護士でかつ経済学の教授であった。
外国では英才教育で才能を育てる一方で、他方ではこうした文武両道のすぐれた選手達がいる。
物事の良し悪しは別としてこのようなケ−スを日本ではほとんど見られないので、そこにはなにか日本文化と外国文化の違いが影響しているかもしれない。
日本には「○○」道という言い方がある。茶道や華道ならまだ分かるが、「料理道」から「主婦道」から何でも一つの道に精進することがすばらしいことなのだ。
日本でプロ野球が誕生する前に、1919〜25年まで早稲田大学の選手・監督を務めた飛田穂洲(とびたすいしゅう)という人がいた。その後、野球記者として健筆をふるい1965年に亡くなる時には「野球の神様」とまで呼ばれた人物である。
彼が選手だった1910年、早稲田大学野球部は来日したシカゴ大学に連戦連敗した。ある試合では0−20といったスコアで惨敗している。
あまりの敗北に彼は復讐を誓い臥薪嘗胆9年、彼は早稲田大学就任を要請される。彼に恰好の復讐のチャンスが到来したわけである。そのために彼が新聞記者をやめ、大幅な収入減であろうことなどは意に介さなかった。
そして武士道・禅精神・半死半生になるまでの苦行に近い練習がはじまった。
彼の指導による練習成果は見事に現われ1925年には36勝1分けの奇跡のような戦績を残す。この中にはシカゴ大との試合の3勝1分という戦績もふくまれている。
その時、歴史は動いた!飛田式精神野球は、その後の日本野球の目指すべきモデルとなったといってよい。

日本では幼少期から野球なら野球だけにどっぷり浸る生活になってしまって、学業が十分に出来ないのはもちろん、他のスポーツに参加することさえ批判の目で見られる、甲子園上位校の選手が医学部や法学部に進み医者や弁護士になれるようになっているかというとほとんどないといわざるを得ない。
少年時代から一つのスポ−ツばっかりやってきた生徒が途中で故障したり挫折したりすると、学年が進めば進むほど武を文に切り替えることがいかに大変で両方ともだめになり現実には非行に走ることが少なからずある。
また日本ではあるスポ−ツをしている選手が、他のスポーツをすることは勇気がいる。そんなことをしている暇があったら言われてしまうのがおちで、挑戦すらあきらめざるをえない。
アメリカでは、野球の一流プレイヤ-がシ−ズンオフにアメフトの選手として活躍しているニュ−スを聞いて驚いたことがあった。
広島カ−プのホプキンスは一流アスリートとして動ける期間はわずかな年月で大きな怪我をすればその瞬間で終わりであると合理的に考えていた。
ホプキンスはそのわずかな期間は人生の一部にしかすぎないと考え、さらに人生を何か「ひとつに捧げること」が日本では賞賛されすぎるという。それはそれですばらしいことではあるが、反面他の可能性に目をつぶることになっているのかもしれない、という。
私は、伊勢神宮近くの川で禊をするという新人社員教育をしている会社を知っているが、その会社が一生をささげるほど、社員を大切にしている会社のようにはどうしても思えない。
徹底的なスポ根アニメ風な人生がそれほど輝ける時代でないような気がする。
飛田式精神野球の世界を飛び出し大リ−グでかえって生き生きとプレイする日本人プレイヤ−の活躍をみるにつけ、個の生き方を大切にしている社会のほうが、人の能力をはるかによく引き出す社会のような気がしてくる。