引き裂かれた魂


2001年9月11日、二機の旅客機が世界貿易センタ−に突入、ビルはその数分後完全に瓦解し、6000名近くの人々の命が奪われた。
 実は世界貿易センタービルの設計者ミノル・ヤマサキという日系移民であった。 ミノル・ヤマサキは1912年12月1日、富山県出身の日本人移民の子としてシアトルに生まれた。母方のおじが建築家であった影響で建築を志した。家が貧しかったのでサケの缶詰工場で働きながら、学費を稼ぎ苦学して建築学を学んだ。
その後、一流設計事務所に務めながら修業を積み次第に頭角をあらわしていった。29歳で結婚したその2日後に真珠湾攻撃があり太平洋戦争が勃発する。戦前からその能力を認められていたヤマサキ、日系人への迫害が激しかった太平洋戦争中も、収容所に強制収容されることもなくいくつかの事務所を渡り歩いて終戦の年1945年には所員600人を擁する大手設計事務所事務所のチーフデザイナーに迎えられている。
その後4度にわたってアメリカ建築家協会の一等栄誉賞(ファースト・ホーナー・アワード)を受賞するなど日系人の一流建築家としてニューヨークに、当時世界最高の高さを誇るビル(世界貿易センタービル)を設計する栄誉を手にした。
その後もトップクラスの一流建築家として活躍し、数多くの作品を残したヤマサキは、1986年2月7日、73歳で亡くなっている。日本では都ホテル東京に彼のデザインの一端を見ることが出来る。

私はミノル・ヤマサキの経歴を調べるうちにイサム・ノグチというもう一人の日系人のことを思い出した。
ノグチは1904年11月17日は、アメリカ合衆国ロサンゼルスで日本人の詩人である野口米次郎アメリカの女流作家との間に生まれた。1906年家族とともに日本へ移住し、2歳から13歳までを東京で暮らした。日本での小学校時代、工作が得意だった。友達と馴染めず転校を繰り返していた。学校には行かず、茅ヶ崎の木工細工の職人の元で修行をしていた時期があった。
アメリカに戻り、大学はコロンビア大学医学部に入学したものの、19歳の時から彫刻に目覚め在学中にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校で彫刻を学んだ。1927年から奨学金でパリに留学し、2年間、ロダンの弟子である彫刻家に師事し、1928年にニューヨークで最初の個展を開いた。
1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、自ら志願して強制収容所に拘留された。
彼は後に芸術家仲間らの嘆願書により釈放され、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。「ノグチ・テーブル」をデザイン・製作するなどインテリアデザインの作品に手を染め、2年後から岐阜ちょうちんをモチーフにした「あかり」シリーズのデザインを開始した。

同時代を生きた二人の日系人芸術家を比較した時にヤマサキは間違いなく成功者であったが、彼の作品は、世界貿易センタ−ビルのみならず不幸な経過をたどっている。プルーイット・アイゴー団地は住民に愛されず、犯罪の温床地となり、1972年にダイナマイトで解体されている。
またノグチイサムのモニュメントが1952年には広島平和記念公園の慰霊碑として選ばれたが、原爆を落としたアメリカ人であるとの理由で却下された。しかし彼のデザインの一部はノグチの起用を強く推した丹下健三により設計された「原爆慰霊碑」の中に色濃く生かされている。ただ平和公園の東西両端に位置する平和大橋・東平和大橋のデザインはノグチの手になるものである。
彼は後年、アメリカ大統領の慰霊碑をデザインしたこともあるが、こちらの方は日本人であるとの理由で却下されている。
しかし1984年、ニューヨークのロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ庭園美術館が一般公開され、また1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を授与された。ノグチは 1988年冬、肺炎によりニューヨークで84歳で死去した。

私は、ヤマサキとノグチの歩みを見た時一つ「違い」が気にかかっている。
ヤマサキは日米戦争勃発の際、日系人収容所に入ることなくアメリカで活躍し続け一流建築事務所を渡り歩いたのに対し、野口は自ら日系人収容所にはいることを選んでいる点である。
人間のアイデンティティの問題について私は聖書のある出来事を思い出す。映画「十戒」でもよく知られるモ−セは若き日にエジプト人の王の子供として育てられるが、自分がユダヤ人であることを知るやあえてエジプト人にユダヤ人奴隷として酷使される道を選ぶのである。
ノグチの場合、収容所においてアメリカ人とのハーフということで、アメリカのスパイとの噂がたち日本人から冷遇され、今度は自ら出所を希望するがまたも日本人のハーフとのことで出所はできなかった。
  自ら日系人収容所入りを志願したノグチの芸術の原点は京都の禅寺である。20代から龍安寺や天龍寺の石庭を何度も訪れ、自然石は彫刻だという哲学に辿りついたという。
ノグチは、彼とおなじように二つの国つまり日本と中国との間で魂を引き裂かれた山口淑子(李香蘭)と結婚していた時期がある。

ちなみに広島生まれのファッションデザイナ−の三宅一生は、1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見る。自宅で大やけどを負った母は4年後に亡くなっている。
幼少期から優れた美的センスを発揮して一貫して美術部に所属していた三宅は、焼け野原から復興する広島の街中をつぶさに眺め、高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに大きな感銘を受けている。芸術家同士の様々な「めぐり合わせ」を感じさせる話である。