さて以下のABCとは誰でしょう。

(A)機械いじりが大好きな少年は母が難聴のため父の影響で視話法を研究した。音を目に見えるものにしようと音声の研究から音声の電送の可能性を探りついに電話を発明した。
(B)貧困の中、両親を早く失い孤児院生活を強いられ、病のため視力を失うが盲学校卒業後に手術により視力回復をし教師として生きた。
(C)裕福な家庭に生まれるが原因不明の病に冒され三重苦を背負いながら、一人の家庭教師との出会いによって障害を克服し、文字を覚え学ぶことを知り今のハ−バ−ド大学を優秀な成績で卒業した。

<ヒント>Aの仲介によってBとCが出会うことになった。これはささやかな出会いではあったかもしれないが世界の人々に勇気を与えたという意味で世紀の「めぐりあわせ」と言ってよい。(正解は一番下です)

アレグザンダー・グレアム・ベルはスコットランドのエディンバラ生まれで母が難聴であったため父の影響で視話法を学ぶ。エディンバラ大学で学ぶが、24歳の時に病で余命6ヶ月と宣告され父と共にカナダに移住した。その後アメリカへ移りボストン大学で音声学を教える傍ら、音声の多重伝送を研究した。
彼の研究の端緒は、口と耳の不自由な人のために、音響の波動を目の前に見せようとする器具を作ろうとしていたのである。
研究の最中、偶然に、電磁石を使ったマイクの原理を発見し、これが電話機の発明に繋がっていく。
 ベルの下で視話法を学んでいた伊沢修二と留学生仲間である金子堅太郎がベルの下宿で発明直後の電話を使っており、日本語が世界で2番目に通話した言語になったというエピソ−ドもある。
このグラハム・ベルの隠れた功績はアン・サリヴァンをヘレン・ケラーの家庭教師として紹介したことである。

アン・サリバンが9歳の時、母親は死にアルコール中毒の父親が娘を養育できなかったため州の孤児院に引き取られた。
アンは5歳の時にかかったトラコーマのためほとんど目が見えず、たまたま孤児院を視察に来た州の慈善事業委員長に学校に行きたいと強く訴え14歳でパーキンス盲学校に受け入れられた。そこで目の手術を受けてかなり視力を取り戻し首席で卒業するほどになった。
その頃ヘレン・ケラ−の両親が視力は回復しそうもないと診断をうけた娘を、ある眼科医にすすめられてアレクサンダー・グラハム・ベル博士に会いに行っている。
ベルは知り合いの全米初の盲学校であるパーキンス盲学校の校長を紹介し、校長がヘレンのために選んだ教師が、当時21歳の貧しいアイルランド人移民の娘アン・サリバンであった。
ヘレンの両親はさすがにサリバンの生い立ちが気がかりだったようだが、1887年3月3日、サリバンがアラバマ州タスカンビアに列車から降り立った時、人間の精神史における新しい1ペ−ジが開かれようとしていた。
家庭教師アン・サリバンのヘレンに対する厳格で献身的な教育の姿は映画化・戯曲化されている。そしてヘレンは天賦の才を開花させ米国の女子教育の名門大学に学ぶ。
ところでヘレン・ケラーは11880年米国南部・アラバマ州で裕福な地主の家庭に生まれた。恵まれた環境で元気に育っていたヘレンは1才9ヶ月の時に奇妙な高熱に見舞われ視力と聴力を完全に失ってしまう。
成長途上に心の安定を完全に失っていたヘレンはサリバン女史と出会い、文字を覚え勉学に励み1904年にラドクリフ大学(現在はハ−バ−ド大学に統合を優秀な成績で卒業後した。まもなく彼女、自分に与えられた使命が障害者の救済にあることを自覚し、著述と講演を精力的に行うようになっていく。

実はヘレン・ケラーは海外への講演旅行がけして多くはない中、日本に1937年1948年と1955年の3度も来日している。ヘレンは日本に対して特別な気持ちをもっていたようにも思えるが、その架け橋となったのが岩橋武夫であった。
岩橋は早稲田大学在学中に失明した。岩橋は日本の障害者の法制度の不備に気づきアメリカで知られたヘレンケラ−を日本によぼうと考えた。まず岩橋はアメリカに行ってヘレンに会い来日についての打診をしたが、ヘレンの心の支えであるサリバン女史がその頃重い病床にあり、来日は困難な状況であった。サリバン女史は1936年に亡くなるが、彼女は病床でヘレンに日本に行くことを勧めていた。
実はその時代、日本は満州の利権でアメリカと鋭く対立していた。
しかしヘレンは故サリバンの言葉を思い出し1937年4月、ついにヘレンケラ−が秘書とともに来日した。政府要人が出席した前でヘレンは障害者の支援と福祉制度の必要性を訴えたのである。
しかしヘレン帰国後、日中戦争・太平洋戦争の悪化で日米関係は最悪となり、政府は障害者への政策に関心が薄れていき、岩橋とヘレンの交流もとだえがちであった。岩橋が設立した視覚障害者団体ライトハウスは「失明軍人会館」とよばれるようになった。
音信不通となりがちなヘレンと岩橋であったが二人には約束事があった。国同士がどんなに不幸な関係になっても 互いの友情を失うまいということであった。
  戦後、1948年には毎日新聞社の協力により、岩橋武夫は再度ケラー女史を招いて愛盲運動を展開した。敗戦後の日本において、女史の講演は障害者に希望を与え勇気づけるものとなり、盲人自らの全国組織が誕生し、盲児童の就学義務制度や身体障害者福祉法も生まれたのである。

ところでグラハムベルが発明した電話をつかって日本語を話した伊沢は、1875年に師範学校教育調査のためにアメリカへ派遣されていたのであった。グラハム・ベルから視話術を、ルーサー・メーソンから音楽教育を学んだ。ハーバード大学で理化学を学び、地質研究なども行う。聾唖教育も研究し1878年に帰国している
。 1879年には東京師範学校の校長となり、音楽取調掛に任命されるとかつての先生であるメーソンを招き、来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し「小學唱歌集」を編纂し体操伝習所も創設した。
1888年には東京音楽学校、東京盲唖学校の校長となっている。また吃音矯正においても研究した。

グラハム・ベルの紹介によるヘレンとサリバンとの出会い。グラハム・ベル下ので学んだ日本の伊沢修二は東京盲唖学校の校長となっている。またヘレンケラ−を日本に呼んだ岩橋武夫は、グラハム・ベルがかつて学んだエディンバラ大学を卒業しライト・ハウスを設立している。
私はベル・へレン・サリバン三人を襲った病について思う。ベルがイギリスからアメリカに渡った理由は余命幾ばくという病のためであった。彼の病がなければヘレン・ケラ−とサリバン女史との出会いはなかった。
天が与えし難問に最もよい答えを出した人々の「めぐり合わせ」である。

<正解>A グラハム・ベル B アン・サリバン Cへレン・ケラ−