早川雪洲は、日本人ハリウッド俳優第一号というべき人物である。
早川雪洲は、1886年千葉県千倉七浦村の網元の末っ子として生まれ、本名を早川金太郎といった。
東京の海城中学校に入学して得意科目は英語であった。海城中学卒業後、海軍兵学校学科試験に合格したが海で潜水中に鼓膜を痛めたのが原因で兵学校の体格検査で不合格になった。
このことに本人も家族もいたく心を痛めるが、早川の人生を転換させるある出来事がおきたのである。
千葉県千倉沖でダコタ号というアメリカの船が座礁し村人たちが船客を救助したが英語が得意な金太郎が彼らの面倒を見、様々な世話などをしたのである。
この出来事は彼の人生の「めぐり合わせ」といってよい。
この出来事が海軍大将の夢をたたれた早川に、新たにアメリカへの夢を抱かせるきっかけとなったからある。
そして1909年に横浜からアメリカに渡った金太郎はシカゴ大学に入学し,法制経済の勉強をしながらフットボール選手として活躍した。

1913年に無事シカゴ大学を卒業した早川はロサンゼルスのリトルトーキョーで芝居を見て団長に面会を求め内容について意見を述べついには脚本を作り主役までやってしまった。この公演が評判になり、早川はリトルトーキョーではちょっとした有名人になったのである。芸名は尊敬する西郷南洲(西郷隆盛)の名にちなんで早川雪洲とした。
あるとき早川の芝居を観劇に来ていた当時の大物プロデューサーが芝居の映画化話をもちかけた。そして雪洲主役の映画がヒットして日本人初のハリウッドスター早川雪洲が誕生したのである。
そして東洋的神秘を感じさせる独特な早川雪洲のキャラクターが確立し、アメリカ人女性に人気を博す一方で、日本国内では国辱スターと呼ばれたりもした。
その後、早川は映画会社との関係が悪化や排日運動が高まりとともに,1923年に自らハリウッドを去った。サイレントの時代は終わり、映画スター早川雪洲の時代は終わるかに思えた。しかしパリでの公演「神の御前に」が大ヒットし、早川はサイレントムービーだけのではなく、堂々たる舞台俳優としてもスターの座を獲得したのである。
こうした早川雪洲のこうした自由奔放な生き方を支えたのが青木鶴子という女性である。この青木鶴子は『オッペケペ節』で知られた博多で旗揚げした新派の祖・川上音二郎の姪で、1899年、8歳の頃から子役として川上一座とともにアメリカ各地で巡業していたのである。
だが、アメリカでは子役の労働条件に厳しい制限があり、それに加えて一座の興行収入を持ち逃げされるという災難が重なったため、足手まといとなった鶴子は、一座と別れサンフランシスコに留まることになった。
そうして鶴子は日本人画家の青木年雄に預けられ養女となったのである。
その後養父のが亡くなると、鶴子は白人女性記者に引き取られ、彼女の下でロサンゼルスの映画学校に通い本格的に演劇を学んだ。やがて、鶴子はハリウッドの監督・製作者に見い出され劇や映画に出演するうつに早川雪洲と出会うのだ。
それぞれが歩んできた波乱の人生の中で二人はアメリカの地で「めぐり合った」のである。

私は早川の成功の陰に博多で育ったこの青木鶴子の存在があるように思えてならない。
二人は1914年に結婚したが、早川雪洲は俳優として成功するにつれ日本を不在にすることが多かった。その早川を日本で待ち続けたのが青木鶴子であった。幼いころより叔父・川上音二郎の奔放な姿を見て、また一座の一員として芸人の生き様をみてきた鶴子であったからこそ、鶴子は早川を理解し静かな港のように待ち続けることができたのだと思う。その意味で早川の成功の裏には、博多で立ち上げられた一座の精神があったのではないかと思うのである。
早川出演の最後の作品は、デビットリーン監督の「戦場に架ける橋」で1957年のアカデミー賞を7部門にわたって獲得し、日本人初となるアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。
「戦場に架ける橋」では日本軍とイギリス軍が協力して橋を建設するが、ウイリアム・ホールデン扮する米兵らによって橋が爆破されるという話である。その中で、早川は捕虜収容所長を演じ、アレックス・ギネス扮するイギリス軍大佐との腹の探り合いが面白く描かれている。
 戦前の雪洲は冷酷・残忍というステレオタイプ化された日本人役を演じたが、戦後は軍人としての誇りや家族愛も示す人間味ある役を演じるようになった。
ただ早川はハリウッドの映画スターの中では身長が低く、背を高くみせるように台をつかった。そして、映画の中で台を使い背を高く見せることを今でも英語で「SESSYU」という。早川は1973年87歳で死去した。