特務機関とは、戦争中に純作戦以外の複雑困難な問題を解決するために設けられたものである。 1919年に初めてそうした機関が設けられ太平洋戦争時には、F機関(藤原機関)や南機関などが よく知られた特務機関であった。
  日本からマレ−シアにわたった一人の男が、馬賊の頭目として活動し、その男に日本のF機関が着目した。F機関の藤原少佐とその男の出会いは、後に戦後テレビ・映画におけるヒ−ロ−を生むという「めぐり合わせ」でもあった。

福岡市の南部でて農業を営んでいた谷家は1930年代にシンガポールにわたり理髪店を経営する。 しかし1937年に日中戦争が始まるとマレー半島でも反日的な機運が高まっていた。トレンガヌにあった谷家の理髪店は華僑によって襲撃され、長男であった谷豊(たにゆたか)の妹が殺害されるという悲劇がおきた。
「復讐の鬼」と化したと書いてある書物もあるが、その後の谷豊氏の経歴は不明であるが、成人した谷豊氏が馬賊の首領としていつしか人々から「マレーの虎」(ハリマオ)と呼ばれて恐れられていく。この時谷豊は勘当同然であり当然日本に帰った家族とは音信不通となっている。
 日中戦争の長期化にともない、その頃日本軍は東南アジアに活路を求めていた。そこで特務機関のF機関(藤原機関)は、現地の地勢や情報に詳しい谷豊氏との接触を試みる。機関の一員として谷豊を取りこもうとしたのである。
F機関のリ−ダ−である藤原岩佐少佐は、偶然に谷豊との接触に成功しその時の出会いの印象を次のように書いている。
「数百名の子分を擁して荒し廻ったというマレイのハリマオは、私の想像とは全く反対の色白な柔和な小柄の青年だった。谷君は深く腰を折り、敬けんなお辞儀をして容易に頭を上げないのであった。」
余りに遜った態度に藤原少佐は驚き、そしてマレー人になりきった過去の境涯をしのんで、いじらしく感じたという。
1942年、真珠湾攻撃の約2時間前にマレー半島に進攻した日本軍は、その後銀輪(自転車)部隊で半島を南下し、2月15日に英国の東アジアにおける要衝であるシンガポールを制圧した。
 藤原少佐は軍政監部の馬奈木少将と直談判し、谷豊を軍政監部の一員として起用することを要請していた。しかし谷豊はシンガポール占領から約1ヶ月後にマラリアにおかされていた。
藤原少佐と谷豊の再会は、シンガポールの兵站病院の一室だった。
藤原少佐が見舞いと慰労の言葉を述べるとハリマオは充分な働きが出来ないうちにこんな病気になってしまって申し訳ないとわびた。
藤原が、無理をするなお母さんのお手紙を読んかと尋ねると、谷はうなづいて胸一杯の感激を示し涙があふれるようにながしたという。
藤原少佐が、病気が治ったら、軍政監部の官吏に起用してもらうことに決まったと伝えると、ハリマオは藤原をきっと見つめつつ、自分が日本の官吏さんになれるんですかと叫ぶようにいいハリマオの余りの喜びにむしろ藤原少佐の方が驚いたという。
「馬賊」、有体にいえば盗賊として日本人からも白眼視されていた谷豊にとって日本の為に公的な立場で仕事ができるということは、夢のような処遇であったのかもしれない。
しかし、この日が2人の終生の別れとなった。シンガポールの陸軍病院で30歳の生涯を閉じている。
死後ただちに配下のマレー人イスラム教徒によりシンガポールのイスラム墓地に埋葬された。マレー人の心をもちイスラム教徒となった1人の日本人の静かな死ではあった。臨終を見守っていた配下のマレー人がその時、日本軍に求めたのは白い布2枚だけだったという。それはイスラム葬で遺体を包むのに必要なものだった。
訃報を日本で知った藤原少佐は「北部マライの虎として泣く子も恐れさせた彼は、マライの戦雲が急を告げるころ、翻然発心して純誠な愛国の志士に返った。彼は私の厳命を遵守して、彼は勿論、その部下も私腹を肥やす一物の略奪も、現住民に対する一回の暴行も犯すことがなかった」と彼の死を惜しんだ。
藤原少佐は、直ちに谷豊を正式の軍属として陸軍省に登記するよう求め、それによって谷豊は英霊として靖国神社に祭られることが決まった。

 戦中戦後、谷豊の人生はその後意外な形で日本人の心に宿り続けた。部下3000人を率いる大東亜の英雄ハリマオとして蘇ったのである。
  つまり彼の人生は戦意高揚のために偶像化され映画化された。また戦後はテレビドラマ「ハリマオ」のヒ−ロ−として蘇えったのである。
怪盗「犬の面」らを率いて盗賊団の首領となり神出鬼没の大活躍をし、あくどい地主や金持ち、英国人を襲って奪った金を貧乏人にばらまく「義賊ハリマオ」の人気は民衆の間に広がった。英政庁は多額の懸賞金をかけてそのヒ−ロ−の行方をおう。
映画に登場するハリマオの配下には優秀な一芸に秀でた者が多かった。
爆発を扱わせると名人芸を発揮するザカリア、吹き矢の名手のアリー、カバット(手斧)投げのノール、ジャングルの巨木の枝から枝へ飛び移る身軽いタフィック、シラット(マレー空手)の名手ハミッッド、巨漢で十人力のインド人シンなどである。
肉親を捨て祖国を捨て去って生きた孤高の谷豊が死後日本のヒ−ロ−となった背景には、戦意高揚という時代趨勢の中、藤原岩佐少佐と谷豊の間のささやかな友情があったようにも思うのだが。