江戸時代の末、福岡藩には全国でめずらしく二つの藩校があった。
世に儒者として名高い貝原益軒の学派より藩校・修猷館が創設され、徂徠学派の亀井南冥により藩校・甘棠館が創設された。
修猷館(東学問所)は、明治維新後は廃止に追い込まれえるが、旧藩主の黒田長博や卒業生の金子堅太郎の努力により復興が認められた。金子は藩閥政府の下では優遇されることが少なかった福岡藩士の中で、伊藤博文に見出され大日本憲法制定などに関わった人物である。
戦後極東国際軍事法廷でA級戦犯として死刑の書せられた唯一の文民でありまた唯一の福岡県出身の総理大臣である広田弘毅や、最後まで日米開戦に反対し東條内閣の転覆を諮ったとして憲兵隊に取調べを受けた後、自宅にて自害した政治家中野正剛も修猷館出身であった。
戦後にも、ソ連との交渉に当たり次期首相候補と目された緒方竹虎元自民党副総裁もここの卒業生である。
緒方は中野の小学校以来の親友で中野自害の際には、東条内閣監視の下、身の危険を顧みることなく中野の葬儀委員長をつとめている。緒方貞子は彼の義理の娘である。

他方、甘棠館(西学問所)を創設した亀井南冥は志賀島の金印が光武帝より授けられたものであることを解明した学者であった。中国の「後漢書」に「建武中元二年、倭奴国、奉貢朝賀す。使い人は自ら大夫と称す。倭国の極南界也。光武賜るに印綬を以てす」と言う記述と金印が一致すると考え、「漢委奴国王印鑑定書」を全国の学者や知人に送りその保存を主張した。
ただ徂徠学は幕府に批判的立場をとっていたため次第に危険思想とみなされた。
亀井南冥の学派は藩により禁じられ、南冥は晩年、大宰府で不遇の時を過ごし1814年に甘棠館とともに自宅が焼失し焼け死ぬという悲壮の生涯を送った。
その後、甘棠館の再興は許されず廃校となるのである。
 甘棠館の建物は灰燼に帰すが、甘棠館の系統はその後、形をかえて芽を吹きかえすのである。
須恵町の眼医者の娘として生まれた高場乱が、亀井南冥の息子・亀井昭陽に学び現在の博多駅近くの人参畑とよばれていた場所に私塾を興したのである。高場は亀井昭陽門下の四天王の一人といわれていた。
この通称人参畑塾に学んだ人々の中に後に玄洋社をおこす平岡浩太郎や頭山満や進藤喜平太らがいた。ちなみに玄洋社の名前の由来は平岡の号が「玄洋」だったからである。
頭山満は1871年眼病にかかり、高場乱にみてもらったことが、きっかけで高場乱の人参畑塾で学んだ。
亀井南冥から高場乱へ、高場乱から頭山満の玄洋社へと日本近代史の伏流を創りり出すのである。

政治の表舞台で活躍した人材を多く生み出した修猷館に対して、終始政治の裏面から影響力を与 え続けた甘棠館の流れは、時に交錯し近代日本の政治の動向に微妙な色合いを与えた。
実は金子が卒業した修猷館の人脈と甘棠館の流れを汲む人脈が日露戦争を舞台にかなり先鋭に交叉するという「めぐり合わせ」にドッキリする。
意外なことに玄洋社はもともとは自由民権運動や国会開設運動にいたるまで土佐の立志社に比肩するほどの政社であったのだが、ロシアの「三国干渉」を境に国権論に傾いていく。
ためしに日露戦争またはその関連で活躍した福岡藩士またはその子供の名前をあげると次のようになる。

ポ−ツマス講和会議をお膳立てをした金子堅太郎〜修猷館卒業後、ハ−バ−ド大学留学
小村寿太郎全権大使に随行した外務省政務局長・山座円次郎〜修猷館卒業
駐露公使・栗野慎一郎〜修猷館卒業
ロシアの内政撹乱にあたった明石元二郎大佐〜修猷館卒業
三井三池で石炭増産にはげんだ団琢磨〜修猷館卒業後、マサツ−セッツ工科大学留学
対露強硬主戦論を唱えた東大七博士の一人寺尾享〜修猷館卒業
対露強硬主戦論を唱えた玄洋社の頭山満〜向陽社(人参畑塾)出身
日比谷焼討ちの演出をした内田良平〜上京し講道館、東洋語学校卒業

歴史の表面には出ないが、日露戦争当時ロシア軍を背後を脅かしたゲリラ満州義軍は頭山満の玄洋社と参謀本部が協力し、満州の馬賊を組織したものである。55人の日本人と数千の満州馬賊が敵将をして「眼中の釘」といわせしめる活躍をした。
福岡市崇福寺の玄洋社墓地には「満州義軍志士の碑」がある。
さらに玄洋社初代社主平岡浩太郎(向陽社から修猷館卒)の甥にあたる内田良平は講和反対の市民運動”日比谷焼き討ち事件”の影の演出者ともいわれている。
一方、金子堅太郎はハ−バ−ド大学でセオドア・ル−ズベルト大統領と同級生であったために伊藤博文枢密院議長に日露講和条約の斡旋を依頼にアメリカに派遣された。
その時、金子はアメリカを日本寄りにすることは不可能であり「暗黒の地」に向かう気持ちであったという。
しかし門戸開放をとなえ中国大陸への利権に関心をもち始めたアメリカにとってロシアはうとましい存在となったことや、アメリカの伝統的な専制君主嫌いがロシアから離反させ日本びいきにさせていたことは、金子にとっても予想外のことであった。
セオドア・ル−ズベルト大統領は講和条約斡旋をひきうけることになるが、それにしても伊藤博文は、日露戦争のこうした先の展開を読んだうえで金子を自分の側近にしたわけではあるまい。
ル−ズベルトと金子堅太郎がハ−バ−ド大学の同級生であったことも何かの「めぐり合わせ」という他はない。