とことんいくところまでいってしまう人がいる。
傍目にはどこかで方向転換してはどうかと見えるのだが、本人もそう思いつつも、やはりいくところまでいってしまう。不器用な人に映るのはまだよしとしても、時として破滅型に映ることがある。
自分でもだれかが自分を止めることを望んでいるのかもしれない。結局、彼には身の破滅しか待っていないように見える。
ただ何を間違ったのか破滅に向かうはずの人生に、「大成功」という大事件がおきてしまう。
三重県鳥羽で、養殖貝の中に「白く光る石」を発見した御木本幸吉などが、「破滅型とことん人生」の成功者の一人であるように思う。
1890年御木本は著名な動物学者から真珠は養殖できるかもしれないと聞き、郷里の英虞湾で真珠養殖場をおこした。赤潮による真珠貝全滅の悲運にもめげず、家産の大半を注ぎこんで研究をつづけた。
しかし、雲をつかむような真珠養殖につかれた御木本に村人は「とうとう頭にきたらしい 大山師だ」と後ろ指をさした。
家産も失い村人も離れていったが、妻だけが最後の協力者であった。
1893年に世界ではじめてアコヤ貝の内殻に半円真珠を造り出すことに成功し、1905年には真円真珠の養殖にも成功し「世界のミキモト」として知られていった。

信号機は、学校で赤青黄と教えられていたが、青がどうして緑でしかないのはどうしてだろう、とは小学生の頃より思っていた。しかし近年、信号は本当の青色に変わり、小学生にもようやく納得できる色になったのではないかと思う。
この青色を発する発光ダイオ−ドを開発した人が中村修二氏である。
発行ダイオ−ドとは自然界にない人工的な「発光する石」を作りだす技術である。発光ダイオ−ドはコスト高ではあるが「球切れ」の心配がなく半永久的に使え、しかも外光の反射もないので視野性においても優れている。いいことずくめの発光ダイオ−ドによってヨ−ロッパでは、一気に信号機はこの技術(LED技術)にとりかえられていったのである。
ところが本家本元の日本ではこの技術への切り替えは遅々として進まなかった。 それには次のような理由がある。信号機のメインテナンス業者には多数の警察官僚が天下りしており、信号機の電球の交換費用という利権が、このLED技術によって奪われる、つまり警察がLED信号機に切り替えない理由は、警察の「天下り」確保ということであるらしい。
ここにいたっても、なお中村が開発した技術には日本独自の壁に阻まれていったというわけである。
中村氏は青色発光ダイオ−ドの開発成功後、日本における学校・会社などの硬直性や閉鎖性に「怒り」を抱き、学会で知り合った外国人教授の招きで祖国を離れカリフォルニア大学サンタバ−バラ校で研究をしておられる。

中村修二氏がとりくんだLED技術とは、炭化珪素に電流を流せば発光するという原理を応用したもので、赤・オレンジ・黄緑については早い段階から実用化が進んでいた。
しかし中村氏がこの青色ダイオ−ドを研究する始まりは徳島県阿南市にある日亜化学という会社においてであった。そして五年の歳月をかけてその開発が成功する。赤(R)・緑(G)が成功しもし青(B)が実現すれば、RGB三色を同じ点で同時に発光させれば「白」を発光させるという技術が実現するのである。
これを一般の照明に使えば同じ明るさ電球や蛍光灯に比べ大幅な省エネになるという極めて日常的な技術なのでもある。
中村氏は、徳島大学大学院卒業後、農村地帯にある日亜化学に入社した。京都の一流企業にも内定していたのだが、学生結婚して身重になっていた奥さんのこともあって自然豊かな徳島に残る決意をした。
開発課のたった一人の研究員としていくつかの技術を開発し製品化に成功はするものの、コストばかり高く売れるものはなく人事の評価もしだいに低くなり、仮に製品化になってもその製品の製造には全く関わることなく、また新しい製品の開発といったサイクルの繰り返しだったという。
振り返ってみると中村氏なりの実績を残せたという満足もある一方、特許申請や論文発表はまったく認められないという閉鎖性が会社にはあった。
会社から「売れる」と言われたことをそのままやってきたのに、しだいに「会社の無駄飯喰い」とまで罵倒されるようになっていく。全く評価もされず給料もあがらず、10年間で残った数字は「赤字」だけということになってしまった。
中村氏は自分なりに優れた商品を開発しえたと小さな誇りを抱いていたのだが、仮に画期的な商品であっても売れて利益につながらないかぎり、企業社会の中では評価されないということを知ったのである。
そして中村氏は「キレ」たのだ。ここから中村氏の「破滅型とことん人生」がはじまる。
会社のいうとおりにやってもろくなことはない、という結論である。あとは辞める他はないのだが、辞めかたを考えたのである。
迷惑かけついでに自分が好きなことをやって辞めることを決めた。人が正しいと思うことの反対をやろう。そして取り組んだのが開発が不可能ともといわれていた青色発光ダイオ−ドであった。

中村氏は上司の命令を無視し続けるような態度をとり続けよくも会社にいられたと思うが、その点この会社にはおおらかなところがあったといえる。
中村氏は小さい頃より人付き合いがよく、会社にはいっても農閑期のソフトボ−ル大会など誘いがあれば断れない性格であった。
ところが中村氏の「怒り」は彼の生き方を大転換させ、全くの「孤独と集中」にはいっていくことになる。
中村氏は「孤独と集中」が良いアイデアを生み出すことを今までの経験からよく知っていた。
中村氏がすごいのは、自身の成功パタ−ンである「孤独と集中」の中、その思考は座禅の世界に入り込むようにますます研ぎ澄まされていったそうある。
あまりの集中に、車の運転中に信号を見忘れる、妻が話しかけても聞こえない、歩いていると電柱にぶつかる、といったことが続発していく。
中村氏は常にまだどん底までいっていない、どん底までいって這い上がるしかないところまでこう、と決めていた。そして深くバウンドしたボ−ルが高く飛び跳ねるように、「青く光る石」とめぐり合う時が訪れたのである。
 中村氏の「めぐり合わせ」とは、開発課がたった一人のあまり大きくない会社に入社したことであったといえるかもしれない。