イギリス商人・グラバー家は幕末の戊辰戦争で財を築き「死の商人」ともよばれたが、戦後に商運はなく衰退の道をたどる。グラバ−の息子は太平洋戦争末期、原子爆弾投下時に長崎に滞在し被害は軽微ではあったものの精神的不安におちいり縊死においこまれる。
 
トーマス・ブレーク・グラバーは、イギリスのアバディーンで造船業を営む裕福な家庭の五男として生まれた。
1859年春、造船業を営んでいた父は三男のジェームスリンドレイ・五男のトーマスブレークを伴って、アバディーンから中国上海に三ヶ月滞在したあと長崎へ入港した。
グラバー兄弟は日本と外国との金銀比価の違いを利用して資金づくりを行ない大浦居留地に事務所をかまえた。
渡来した翌年トーマス・グラバーは世話するものがあってお園という日本人女性を妻(内縁)とする。
大浦居留地にあった「グラバー商会」はしだいに信用を増していき幅広い品物を取引していく。
手始めに製茶工場を建設して、広東の英国商館からお茶の専門家であったフレデリック・リンガーを呼び寄せて、本格的な生産・輸出をおこなった。
海産物・木綿・毛織物などの輸入にも手を広げめざましく社業は発展した。
トーマス・ブレーク・グラバーは、弟アレクサンダー・ジョンストンを長崎へ呼び寄せグラバー商会を 手伝わせる。かわりに兄のジェームスはイギリスに帰国する。
幕末、イギリスは幕府支持の立場をとっていたが、グラバーは公使オールコックを説得し倒幕こそ時代の趨勢であると説いて反幕府の側につかせた。
グラバーは社員を上海に派遣して武器弾薬を買い集め、英本国からは艦船を取り寄せ、倒幕の主力であった薩摩・長州にそれらの武器を売りつけている。
こうしたグラバーの働きなくしては倒幕の実現はかなり遅れたであろう。

グラバー家は新政府のもとで多角的な事業を展開し、その意味では幕末の「死の商人」という言い方はもはや適当ではない。
グラバー家は本国イギリスでもともと造船業を営んでいたため造船技術の知識は豊富であった。
薩摩藩の五代友厚らと共同発起した船舶修理場からスタートして、1868年には小菅のソロバンドッグの建設を始めた。翌年政府がこれを買い上げ、1887年には三菱造船会社の所有となった。
三菱長崎造船所のはじまりである。
さらに上海の展示会に出品されていたイギリス製鉄道機関車を日本に取り寄せ、現在の長崎港税関あたりからのちの高島炭鉱の所属地までレールを敷き、日本ではじめて鉄道機関車を試走させている。
1869年、アメリカ人によって開設されたビール醸造所を、1885年、ビール産業の将来性に着目して買い取り本格的なビール醸造に乗り出しジャパン・ビリウリ・カンパニーを設立する。
この会社が後のキリンビールとなる。
グラバーは、大坂府知事となっていた五代友厚の依頼をうけて、新貨幣の鋳造のため香港にわたり、香港の英国造幣局から貨幣鋳造機械を購入して大坂造幣局が建設された。
ここで世界に初めて通用する貨幣「円」が鋳造されることになった。
しかし明治維新の到来によって各藩からの武器の注文はまったく絶えてしまい、武器のストックをかかえたまま炭鉱の賃金は支払わねばならず、急速に負債が増していった。
1871年8月、幹部社員のホームやリンガーに仕事をわけてついにグラバー商会を廃止した。
そしてグラバーと妻・ツルは1893年頃東京に移り住み、グラバー邸には息子・倉場富三郎とその妻・ワカが残った。
倉場富三郎が71才の頃、日本はアメリカとの太平洋戦争に突入する。
南山手のグラバー邸からは、軍事工場ともなっている三菱造船所が見える。当然外国人である富三郎に対して厳しい監視の目が向けられた。
スパイ容疑をまねかないように、富三郎は諏訪神社の氏子として、戦勝祈願などに顔をだし、同じ混血児の妻であったワカは愛国婦人会に加わって、出兵兵士の送迎、千人針、戦地への慰問袋などに協力した。
しかし、日本の敗戦色が強まる中、倉場(グラバー)一家に対する不信の目におびえたワカが自宅で急死した。
1945年8月9日午前11時2分、松山町上空490メートルで原子爆弾が炸裂した。
幸い爆心地から5キロ離れた南山手地区は被害は軽微であったものの、「死の商人」と評されるグラバー家のなんと皮肉な「めぐり合わせ」であろうか。
長崎の街にも米英軍が占領軍として長崎に上陸するという噂が流れ様々な風聞が飛び交った。
そんな中、富三郎は今度は逆に日本への戦争協力の姿勢が占領軍に糾弾されるのではないかという不安にさいなまれていく。
敗戦から約10日めの朝グラバー家は最期の日をむかえる。
8月26日午前4時頃、トーマス・グラバーの子倉場富三郎は洗濯物の紐を首に巻きつけ息絶えていた。
74歳9ヶ月の生涯であった。

グラバ−家の軌跡は、戦争が一族に仕向けた皮肉な「めぐり合わせ」に翻弄され続けたものだったといえるかもしれない。