今から20年ほど前に私はグランドキャニオン観光のツア−で、セスナ機からインディアン 居住区とよばれる地区をみたことがある。
陽の傾き加減によって岩肌の色の染まり具合が微妙に変化していくのが神秘的だった。渓谷に抱かれた居住区に確かに人影が粒のように見えたのを覚えている。今思うとちょうどこの頃に、このインディアンの先住民が秘めていた日本に関わる予言が明らかにされていたのだ。

アメリカでは、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州、ニューメキシコ州の4州にまたがるフォーコーナーズと呼ばれるところにナバホ族、ポピ族等のインディアンの居住地がある。
ホピ族は、アメリカ・インディアンの部族の一つでアリゾナ州北部のコロラド川沿いに住んでいる。
「ホピ」とは「平和の民」という意味である。マヤ文明の末裔が、神に導かれ現在の居留地にやってきたのが1000年前のことである。
アメリカ・インディアンと呼ばれるほとんどの部族がいずれも祖先伝来の土地を追われることを余儀なくされてきたなかで、ホピだけは、少なくとも2000年以上の長きに渡ってこの聖地に住み続け、あらゆる差別と迫害に耐えてきた。そしてその伝統的な生きかたと偉大なる精霊から与えられたという予言の石板を守りつづけてきたのである。
石板には、彼らの言葉で第三の世界と呼ばれるこの世界の始まりから、浄化の日を経て、第四の世界と呼ばれる新しい世界が始まっていくまでのことが記されているという。
彼らは、常にホピ一族自身に起こる変化と、この地球の上に起こる出来事の変化を、その石板と照らし合わせながら見つめつづけてきたのだ。

ところでこの石版の内容が最近明らかになってきた。そこにはある日本人とホピ族とのある 「めぐり合わせ」があった。
1948年に、ホピ族の村の太古から伝わる儀式を行う、「キバ」という集会所に、緊急の会議が開かれた。なぜならば、予言のなかに、第一次と第二次のふたつの世界大戦と、ヒロシマ、ナガサキへの原爆の投下がシンボルとして刻まれていたことが分かったからである。
原爆は、ホピの言葉で「灰のつまったひょうたん」と表現されていた。
世界がこのまま進めば、地球を破壊しかねない危険な時代に入ってしまうことを、警告として一刻も早く世界に伝えるため、その予言を世界に公開するべきかどうかを討議するために、その会議は開かれたのだ。
そして四日間の会議の中でその解読された重大な教えと予言を外の世界に伝えるためにメッセンジャーが選ばれた。
彼らは、ホピの予言を世界に伝えることを自らの仕事としてきた。
映画監督の宮田雪がインドに旅した時、非暴力による世界平和」に一生を捧げた仏教僧と出会い、高層の「大地と生命を敬い、創造主への信仰のもとに生きてきたネイティブ・ アメリカンの精神文明こそが近代物質文明を変えるだろう。」という言葉に大きく動かされた。
1978年アメリカで行われたネイティブ・アメリカン自身による権利回復運動としての行進「ロンゲストウォーク」に参加し、そこでホピの予言のメッセンジャーであったトーマス・バンヤッカ氏と出会ったのである。
そして宮田は約7年の歳月を経て「ホピの予言」というドキュメンタリー映画を1986年に制作した。
これによって「ホピの予言」のことは世界にも知られた。 実は広島市・長崎市に投下された原子爆弾の原料となったウランはこうした先住インディアンの住む土地から採掘されたものである。
 またホピ族の近く住むナバホ部族の一人は、ナバホにはその創世神話の中で、ウラン(ナバホはそれを地下世界からのクレッジと呼ぶ)は大地の中に留めておくべきもので、もし解き放たれたなら、それは邪悪な蛇になり、災害や、死や破壊をもたらすだろうと伝えている。

ところで1945年8月6日日本で最初に原子爆弾リトルボ−イを広島に投下したのは、エノラ・ゲイという飛行機だが、この飛行機の名前は当時機長だったポール・ティベッツ大佐 の母親、エノラ・ゲイ・ティベッツ の名前からとったものである。
  母親の名前のついた飛行機が少年という名がついた「灰のつまったひょうたん」つまり原子爆弾が落とされたのである。 このエノラ・ゲイは8月9日の長崎への原爆投下の際にも天候観測機として参加している。そして多くの人々の運命を変える出来事で役割を果たしている。
実は、原爆投下の第一目標は福岡県小倉市であった。エノラ・ゲイは、原爆搭載機であるボックスカーより先に離陸して天候観測を行い、天候に問題はなく爆撃可能との報告をした。
そこでボックスカーも小倉爆撃を目的として作戦を行っていたが、しかし小倉市到着後爆撃経路進入に3回失敗、その間に天候も悪くなり迎撃機も確認されたことから目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更したのである。
ボックスカーは太平洋のテニアン島を離陸するときから、爆弾倉に装備した予備タンクの燃料ポンプが故障しており、残燃料に余裕がなかったことから爆撃航程をやり直す余裕はなく、1回目の爆撃航程の際に雲の切れ間から目視できた地点に原爆を投下したという。
長崎の原爆投下については、人の運命の気まぐれさを強く感じる。
ところでエノラ・ゲイは戦後退役し解体保存されていた。1990年代半ば、スミソニアン航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めてエノラ・ゲイの展示を計画した。
この情報が伝わると米退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり規模が縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任したという。
その後、スミソニアン航空宇宙博物館の別館に移され原爆被害や歴史的背景は一切説明されずに展示されているという。

広島・長崎の原爆に利用されたウランの採掘地帯に住んでいた先住民族の石板には、大地を生きる知恵が溢れていた。(それに比べスミソニアン騒動の顛末とは!)
封印されていた先住民族の知恵が開示されたのも、日本とホピ族とをつなぐ「めぐり合わせ」だったといえるかもしれない。