小説家と編集者という関係はある程度想像できるが、画家と画商の関係とはどのようなものだろうか。
仮に、ある画商が誰からもまだ認知されていない画家の作品を何かの偶然に見かけてその価値を知ったとする。
もしその画家の作品を画商の力で認めさせ商業的にも成功したならば、それは画商冥利につきるというものであろう。
プロ野球のスカウトマンが、無名の選手の素質を見出しその選手が一軍で活躍し注目を浴びるようになればスカウトマン冥利につきるのと同じことだと思う。何よりも画家あるいは選手じたいの喜びは多きいはずだ。
私は特に絵の世界においては優れた原石を見出す審美眼との「めぐり合わせ」が大きい要素を占めるのではないかと思う。
商業サイドで見れば、ある画家の作品が将来必ず売れると思えば、安く作品を買い占めておき画家の価値が社会的に充分にあがったところで作品を売りに出すことだってできるはずだ。
そうした画商の行為を利得行為と非難すべきではなく、画商の審美眼をこそ評価すべきではないかと思うのだ。
私が、画家と画商との「めぐり合わせ」というものを強く感じるのが、福岡県久留米出身の画家・坂本繁二郎と画商・久我五千男(いちお)との出会いである。
まだ初老にさしかかった不器用で「売れない」画家と駆け出しの意気さかんな画商との出会いである。

久我五千男氏は北九州市若松区生まれ、関西で活躍した美術商である。
久我氏は大阪の同じく画商の実兄にすすめられて、1939年ごろ初めて坂本繁二郎を福岡県八女市南部の田園地帯福島町のアトリエに案内された。坂本は青木繁と同じ久留米生まれであるが農耕馬の躍動する姿が美しかったからと1931年以来に八女に移り住んでいた。
久我氏はそのアトリエに通されて目を見張った。そこには坂本の売れない作品の「海辺の牛」をはじめ、滞欧作品の数々、坂本の主要作のほとんどが保管されていたのだ。
目を引くのは「馬」を題材にした作品が多いことであった。四角いキャンバスの中で淡い色彩で描かれた放牧馬が命をもつかのように息ずいていたのだ。
坂本は、パリ留学から帰国した1930年から、馬を求めて阿蘇や島原半島に足を運んでいた。
そして久留米市のさらに八女に住居とアトリエを構えた坂本は、中央の美術団体に属さず黙々と創作を続けていた。
坂本の内向的な性格に加え、戦時色を濃くしていく時代の空気も影響したかもしれない。
そんな坂本の作品をアトリエで見たときに若き画商の久我はふるえるほど感動したという。こんな巨匠の作品が売れることもなくアトリエに眠っているなど日本文化の恥だ、自分が売りまくってやろうと思ったと後に語っている。
坂本びいきの一部の批評家の賞賛もあったにはあったがその評価も充分に浸透せず、かくて坂本は売れるあてもない画を黙々とこのアトリエで描いていたのだ。
坂本は、なるべくならば人に知られず、思う存分に仕事がしたい、とアトリエにこもる日々を続けた。
「面会謝絶」の札が掲げられることもあったという。
戦後もその姿勢は変わらず、1946年に新設された帝国芸術院会員に推挙されるも辞退している。
だが自然豊かな八女地方への愛着と芸術を志す後進への愛情は深く月に一度だけ若い画家のために時間を割き作品を批評した。
「新人会」と呼ばれたこの会合は戦時中も途切れることなく晩年まで続いた。特に戦後は九州一円から中堅、新進画家が訪れ、指導を仰いだという。
しかしその坂本といえども青年画商・久我五千男にその山のような売れない画を発見されて久我氏の腕で画が売れ始めるとこれを大変喜んだ。
久我が兵士として戦争に行った間は当然画の売れ行きもとまったが、久我氏の帰還を誰よりも待ち望んだのは坂本に他ならない。
久我は敗戦で無事帰還した後も、坂本の期待に応えた。1947年1月の福岡玉屋での坂本繁二郎展、同年7月の大阪・阪急デパ−トでの「三巨匠展」、1950年の東京・三越での「自薦回顧展」などは、いずれも久我五千男氏の献身的努力によったものである。
その後、坂本の作品は次第に社会的な評価を高め1954年に毎日美術賞受賞を受賞し、ヴェネツィア・ビエンナーレに作品を出品、1956年には文化勲章を受章している。
1969年に死去した坂本の愛用の手帳には、「創作は真実な自己実現以外にはあり得ない」と鉛筆で記されていたという。