福岡県久留米出身の青木繁の絵は中学より美術の教科書でなじんでいる。
絵画がよくわからない私だが「海の幸」や「わだつみのいろこの宮」などは、どう見ても歴史的に残る大作のように見える。だからこそ教科書にも載っているのだと思う。
しかしこういう傑作が彼の存命中に高評価をえられなかったこと、それが彼の命を短からしめたことにやはり悲劇的なものを感ぜざるをえない。

青木繁は1904年、22歳で東京美術学校を終え、白馬会展に「海の幸」を出品し彼の名を一躍、美術会に知らしめた。同じ画家の福田たねとの関係も深まり男の子が産まれる。 それを励みに制作に没頭し1911年に東京都勧業博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品する。
しかし彼の渾身の力作は三等末席というかろうじての受賞に終わってしまった。
あまりの評価の低さにショックを受けた青木は、父危篤の知らせに故郷久留米に帰る。 その後文部省美術展に作品を出品するがいずれも落選し、しかも家族との折り合いも悪くなり 九州各地を放浪する。
その間、神経衰弱、結核も進展し福岡市内の病院で半ば自殺という形で病死する。
ところで彼は「文展」に「女の顔」「秋声」などの作品を出し落選しているのだが、「文展」の審査は黒田清輝を含む9名でおこなっており旧派・新派の違いはあるものの、一人を除いてすべて東京美術学校の教師であり、残りの一人も彼らの指導を直前まで受けていた人物なのである。
要するに審査陣は「一枚岩」とまではいかなくとも、少なくとも作品を多様な角度から見られる陣容ではなかったことがわかる。
実は青木繁は東京美術学校当時、助教授・藤島武二からの感化を多くうけて、日本神話の幻想への傾倒を深め「日本武尊」や「わだつみのいろこのみや」などの作品を描いている。
審査員の多くは西洋崇拝が基調であり、必ずしも青木の日本油彩画の独自性を理解できたとはいい難いのである。
しかも青木の不遇は、彼の作品を理解することができたであろう師・藤島武二の渡欧による 不在という「めぐり合わせ」にあった。

芸術作品の評価は多様であり青木繁のような悲劇は枚挙にいとまがないと言えるかもしれない。しかし落選続きの男が絵画から版画に切り替え、国内ではなく海外の評価により世に出た人物がいる。棟方志功である。
1924年青森から東京にでてきた男、好きなゴッホばかり描いて、作品を文展を継承した帝展に出品するが落選続きであった。その間、木版画を学び出品しそちらが先に入選を果たした。
1936年国展にだした版画があまりに横長であったために置き場に困りもめていた。
そこにたまたま民芸派の陶工が通りかかり、その「化け物」ぶりに目がとまり早速民芸派のリ−ダ−柳宗悦らが買い取ることになった。そして彼らが棟方を全面的に支持したのである。
無能視されていた画家・棟方志功が版画家として再出発したのはこのような「めぐり合わせ」によるものだった。
その頃、版画も含め芸術の志向はヨ−ロッパであり、棟方は一人仏教や民族説話に題材を求めていく。そして版画は木に潜む精霊を呼び起こすなどという発言をして忌避されたりもする。
誰も予想しないところであったが、棟方作品の評価は海外からやってきた。
「釈迦十大弟子」などの作品がスイスやサンパウロやヴェネチアで開催された国際版画展・ヴエンナ−レ展で次々と受賞していく。
もちろん日本人が作ったエキゾチックな作品ということ自体に付加価値があったのかもしれないが、周囲の風潮に惑わされずに民族路線を貫いた姿が、ゴッホばかりを描いて落選を続けていた若き日の画家・棟方志功の姿と重なる。
棟方志功は1970年に文化功労賞者並びに文化勲章を受賞した。
1975年、まだまだ可能性を孕みながら72歳で亡くなった。