現在の福岡市東区名島の地に名島城があった。
1600年、関ヶ原の戦いで貢献を認められ、豊前国中津から筑前国に移った黒田長政が最初に入った城である。
当時の名島城は三方を海に囲まれていたことから、長政は交通の便が良く、城下町が整備できる広い土地に拠点を移す。
これに伴い、名島城は1602年に廃城となった。
現在では名島城跡の周辺は埋め立てられ、多くは市街地となっている。
一部が公園として整備されているが、建物や石垣などの遺構はほとんど残っていない。
資材のほとんどを新しく築城する福岡城のために使ったからだ。
というわけで、福岡城跡には名島城から移築したとされる「名島門」が残り、黒田家菩提寺である崇福寺の唐門も名島城から移設したものとされる。
もともと名島城は、16世紀の半ばに戦国大名の立花鑑載(たちばなあきとし)が築いた城で、その後、九州を平定した豊臣秀吉が筑前国を小早川隆景に与え、小早川氏は海に近く、水軍の本拠地として利用できる名島城を居城とした。
海に囲まれた立地は平和な時代には不向きでも、戦国時代には重要視されたのである。
さて、名島城跡のすぐ近くに水上機専用の「名島水上飛行場」があったことは市民でもよく知られていない。
1930年に開港し、国内だけでなく中国、朝鮮、台湾などにも航路のある国際空港であった。
1931年9月17日には、北太平洋航路調査旅行中のリンドバーグ夫妻が水上機「シリウス号」で来訪している。
けれども陸上飛行機が普及するにつれて役目を終えて閉鎖される。
飛行場跡は埋め立てられて住宅地になっていますが、記念碑と「リンドバーグ通り」という名前が残っているのみである。

実は、リンドバークが来日した日は、日本の近現代史で、最も重要な日であったのだが、この出来事と関係が深い出来事が、 名島のほぼ対岸に位置する志賀島で執り行われている。
博多湾は、西側の和白から長く伸びる陸繋島が囲むように伸び、その先端に位置するのが「金印」で有名な志賀島である。
志賀島の船着場から海岸伝いに歩くと、小高い丘がありソコに「蒙古塚」がある。

13世紀末、蒙古軍が博多を襲った際 数名の蒙古人の首を日本人が切って埋めたアタリに、昭和の時代(1928年)に「蒙古塚」が立ち、そこで「除幕式」が行われた。
この蒙古塚の「除幕式」に集まった人々は次のような人々であった。
福岡県知事・福岡市長 旧清王朝の人々、川島浪速、 蒙古の騎兵隊などである。
参加予定であった蒙古のカラチン王は突然急病を理由に参加をトリヤメたが、「張作霖の祝辞」がこの式には寄せられて、今その時の内容が蒙古塚横の「石碑」に刻まれてる。
この蒙古塚建立は、鎌倉時代に蒙古襲来を預言した日蓮宗の僧の「発案」によるもらしいが、参加者総数は千人を超え、当時の内閣総理大臣・田中義一「蒙古供養塔」の文字が書かれており、「準国家的式典」でもあった。
ここに集まったモシクハ集まる予定であった「顔ぶれ」を見ると、この「式典」の意図がヨク読み取れる。
その後の満州建国のスロ−ガン「五族協和」のスロ−ガンそのもので、この式典は満州国建国の「先取り」であったとさえいえるものだ。
ちなみに、1931年満州事変、1932年満州建国と続く。
当時、満州は多民族混住の地であり、日本人にとっては朝鮮半島の隣接地域として、将兵10万の血を流して大国ロシアと戦いとったイワバ「生命線」ともなっていた。
1911年辛亥革命によって清朝が滅亡した後、日本の一部に清朝の王族の一人・粛親王をかついで「満蒙独立」の動きがあった。
満蒙独立の真のネライは満蒙における「日本の権益」を中国から切り離して温存しようというものであった。
志賀島における「蒙古供養塔」の除幕式も、「満蒙独立運動」の一環ともみることができる。
日本は当初、中国の北方軍閥で「親日的」な張作霖と手を組んで満蒙独立をしようとしたため、この式典に「張作霖の祝辞」が寄せられているのである。
蒋介石の北伐がはじまると、日本は「中国居留民保護」を名目に、山東半島に日本軍を三度にわたって送り込んでいる。
そして、この「蒙古供養塔」の除幕式は第二次山東出兵直前の1928年3月というタイミングで行われた。
この式典出席予定のモンゴルのカラチン王の妃は、実は清朝・粛親王の妹という「縁」でもあった。
しかし、カラチン王の「病気欠席」も、日本軍の山東出兵に対する警戒または牽制であったとみることモできる。
そしてこの時読まれた「張作霖の祝辞」は、張作霖が「親日」から「反日」へ転ずるビミョーな時期だったのである。
とすると、志賀島「蒙古塚」脇に立つ「張作霖の祝辞」の石碑は、まさに「歴史の証言」物である。
ちなみにこの「除幕式」の3ヶ月後、反日に転じた張作霖は満蒙独立の「障害」となった為に、関東軍・河本大作大佐らによる「張作霖爆殺事件」が起きている。
このことを天皇に追求された田中義一は、翌年内閣ともども総辞職に追い込まれている。
ところで除幕式出席者の一人が川島浪速であるが、「東洋のマハタリ」とよばれた川島芳子の養父となった人物である。
大陸浪人・川島浪速は、清王朝とある「接点」をもつ。
粛親王が工巡局管理事務大臣に就任した時に、その下で警務学堂をおこして巡捕(警官)の要請にあたっていたのが川島浪速である。
西欧の連合軍が万寿山離宮や円明園で略奪の限りを尽くしている時、紫禁城を無血開城させ宝物を保護して清王朝の人々の信頼と尊敬を勝ち得たのである。
粛親王は清朝八大世襲家の筆頭といわれた名家で、王妃のほかに4人の側妃をもち、21人の王子と17人の王女をもうけた。
その第四側妃の娘・芳子を「友好」のシルシに川島に預けたのである。
川島芳子は七歳の時、川島浪速の養女として1914年日本にやってくるのである。
ところで日本に来た芳子は、川島の広大な邸宅に住みながら豊島師範付属小学校に通い跡見高女に進学した。やがて芳子は18歳の時、髪をバッサリと落として「男装の麗人」とよばれるようになる。
ともあれ、志賀島の蒙古塚は満州国建国の予兆ともいうべき「現代史のモニュメント」なのである。
それにしても、志賀島で「満州国建国」の準備がなされていたとは!

博多は奈良時代の大宰府の外港として、迎賓館を港近くに設け外国の使節や貿易商人を迎え、はやくから国際交流の拠点として発展してきた。
当時の博多市中には渡来した宋人達が定着して「大唐街」とよばれる居住区をつくり付近に仏舎を建て並べて「博多百堂」と称していた。
博多百堂の跡地に建てられたのが日本最初の禅寺・聖福寺である。
博多に定住して朝鮮や中国と往来した人々は、多くが「博多綱首」と呼ばれた貿易商人、もしくは舵取、水主などの船乗りだった。
この博多綱首と知られた人のひとりが承天寺を建立した謝国明という人物であった。
謝国明は日本人の妻をもち、現在の祗園の近くに住んでいた。
さて2001年蒙古襲来をNHK大河ドラマ「北条時宗」では、「準主役」となった謝国明を北大路欣也が演じた。
実はコノ企画、NHKチーフ・プロデュサー音成正人氏が「ひと役」かった。音成氏は福岡市出身で修猷館高校卒業である。
ところで元寇防塁が発掘されたのは、1913年で博多湾に600年ぶりにソノ姿を現した。
そして、福岡市荒戸の郷土史家木下讃太郎を会長に「元寇記念碑建設計画」がスタートした。
木下は建設資金もさることながら、海岸の柔弱な砂丘のために「記念碑」の重みに耐えられるか不安だった。
そこで木下に名案が浮かんだ。
第一次世界大戦で日本は連合国側にまわりドイツが占領していた青島を攻撃し、タチマチのうちに陥落させた。
1914年11月、同要塞のワルデック総督以下将兵270人が捕虜となっていた。
福岡市須崎の収容所にはドイツ兵が収容されており、ドイツ兵の中に技術者がいる可能性がある。
須崎収容所のドイツ兵は青島での捕虜で、彼らは青島の海岸に「砲台」を築いた人々であった。
戦いに敗れたりとはいえ、当時ドイツは世界一の科学技術を誇っていた。
1915年4月にドイツ兵も「防塁修築」を受け入れ、福岡連隊司令部に出頭し元寇記念碑建設が許可され、我が国初の「捕虜使役」が実現した。
当時ジュネーブ協定が遵守されており、「捕虜使役」といっても奴隷的酷使が行われたわけではない。
、 「元寇記念碑」の設計は築城学の権威・東大工学部の伊東忠太博士に依頼された。
建設地の地ならしは連日、地元の青年団・婦人会が当たったが、やがてドイツ捕虜の本隊も加わった。
兵卒80人が電車を乗り継ぎ「ラインの守り」を合唱しながら乗り込んだ。
そして1916年7月、福岡市西区・今津海岸に元寇記念碑が見事に完成した。
意外なことに「元寇防塁」は、ヨーロッパの教科書には必ずでてくるものだという。
フランスのシラク大統領が福岡を訪問された際には、見学をしたいという意向が伝えられた。
大の日本びいきで相撲すきだったシラク大統領は、九州場所の際に来福し、「元寇防塁」を見学している。
福岡市ではシラク大統領来福に備え、急遽西区生の松原に残った状態のいい防塁を補強して説明版を新設した。
というわけで竹崎季長で有名な「蒙古襲来絵詞」のレリーフまでもソコに埋め込まれることになったのである。

孫文と福岡とは深い関わりをもつ。
南京臨時政府が発足し、翌年1912年に、孫文は中華民国臨時大総統に就任しする。
しかしほどなく、軍閥の袁世凱(えんせいがい)に地位を譲るが、翌年の1913年、2月13日から3月28日まで、44日間、「前国家元首」の栄光に包まれ、日本政府の賓客として来日した。
かつて、日本に亡命した孫文を支援したのは玄洋社や宮崎滔天、犬養 毅、一部の炭鉱経営者と限られた人たちだったが、今回は大違いで、宿舎は帝国ホテルで、博多まで特別列車。主要駅では万歳三唱で迎えられ、市長が表敬挨拶して歓待している。
ところで、革命軍を組織する資金で、武器だけでも何万丁を入手するには膨大な金額が必要となる。それは、孫文の財政を支援した人たちも同様である。
1911年、革命軍が武昌で蜂起して革命に成功した辛亥革命において、この挙兵に日本人として一番に駆けつけたのが、玄洋社の末永節(すえなが みさお)である。
また孫文は、平岡浩太郎と中野徳次郎、安川敬一郎ら、福岡の炭鉱経営者に多くの資金援助を受けている。
そして、孫文は福岡へ来た時、革命を支援した玄洋社や炭鉱経営者に感謝の気持ちを述べている。
まず孫文は戸畑で安川敬一郎を訪ね、安川が設立した明治専門学校(現九州工業大学)で講演し、福岡では九州大学、大牟田では三井工業学校(三池工業高校の前身)で、学生たちに演説をしている。
そして、3月17日、福岡着当日午後六時より東公園の「一方亭」に招待され、炭鉱経営者の歓迎会が催されている。
19日には、旅館「常盤館」に宿泊し、平岡常次郎氏の案内で博多聖福寺境内なる故平岡浩太郎氏の墓にいっている。
というわけで、「常磐館」は現在の千代町パピオン・ビルあたりに位置していた。
ところで、戦後の史観では、平岡や頭山の玄洋社は「利権獲得」が目的の右翼集団のようなレッテルを貼られてしまっている。
そのせいか、福岡県人がいかに中国革命を支援したかにつき、表立って語られることは少ない。
しかし、孫文と福岡の人々との交流を見ればそれがあまりにも皮相な見方であることがわかる。
そもそも、孫文清朝の「お尋ね者」にすぎなかったし、革命に成功するかどうか、勝算があったわけではない。
孫文自身も後年、「自分の生きている間に革命が成立するとは思わなかった」と述懐しているくらいだ。
そんな孫文を一貫して支援しているのだから、これは利権というより「こころざし」の領分ではなかったかと思う。
もちろん、それを引き出したのが孫文の「魅力」だったといえる。
しかし、目先の利害を超えた福岡の人々の「義侠心」はどこから生まれたのだろうか。
平岡と安川は玄洋社員であり、平岡は西南戦争で西郷軍に参加し、禁固1年の刑を受けている。
安川の長兄は明治初年の福岡藩の贋札事件で藩主をかばって死刑。
次兄は、明治七年の江藤新平がおこした佐賀の乱に官軍として鎮圧に向い、三ツ瀬峠の戦で戦死している。
こうした時代の激動を身にしみて感じていた彼等からすれば、中国革命に資金援助をするのは、逆境にある人間を支援しようというこころざしなくしては、説明ができないように思う。
ところで、福岡市内で、孫文が宿泊した常盤館以外に、孫文ゆかりの場所を探すと、福岡天神の中央公園、福博出会い橋付近に「旧福岡県公会堂貴賓館」がある。
旧福岡県公会堂は第13回九州沖縄八県連合共進会の開催に際し、会期中の来賓接待所を兼ねて共進会々場東側の現在地に建設された。
数少ない明治時代のフレンチルネッサンスを基調とする木造公共建物として貴重であるため、重要文化財として指定され保存されることになった。
以上まとめると、福岡はただ単に地理的な意味でアジアの玄関であるだけではなく、精神的な意味でも「アジアの窓口」といっていいのではなかろうか。