まず意外な話をひとつ〜
明治時代に自由民権運動を抑える思想として社会進化論が鼓吹され、その中心的な役割を果たしたのが、日本美術の恩人といわれるアーネスト・フェノロサであった。
フェノロサはハーバード大学哲学科を首席で卒業した特別優秀な人物だった。Inspired person という言い方がぴったりの人物であったといってよい。
その彼が破格の待遇とはいえない雇われ外国人として、なぜ日本にやってきたのか。

日本で人権といえば、明六社などの天賦人権思想の導入などにより始まるが、歴史的にみれば人権思想はキリスト教にまで遡る。
日本での人権運動は、自由民権運動として閥族打破や国会開設などの政治改革要求という形で表れていく。
だが明治20年頃には、民権思想(人民の自由な活動によってはじめて国力が充実する)と国権思想(国家が強大になってはじめて人民の自由も保障される)の対立が顕在化して激しい抗争が起こった。
ところでフェノロサが職を得た東京大学であるが、元々、東京大学は官吏養成機関としての役割が期待されておりここにキリスト教やら民権思想が蔓延ることは、極力防がなければならないのだ。
そこで明治政府は天賦人権論にかわる西洋思想として社会進化論を推奨していく。 そのことは何よりも東京大学初代総長である加藤弘之の変節が如実に示している。
加藤はいわゆる明六社に属しもともと天賦人権思想を日本に紹介した人物だが、1882年の「人権新説」ではダーウインの生物進化論を社会的に解釈し、国家の利益を優先する国権論を唱え天賦人権論にもとづいた民権論を否定するに至ったのである。
では社会進化論とは何か〜ダーウィンは1859年に進化論を発表するが、これを人間社会に適用して食うか食われるかの帝国主義時代の指導理念として利用する傾向が生じた。そして「優勝劣敗」「生存競争」という矯激な標語となって広まり社会進化論とよばれた。ただしこの思想はダ−ウイン自身が示唆したものでは一切ない。
つまり社会進化論は国権論や国家主義を支持する学問なのである。この社会進化論が明治10年代中葉以降、東京大学という官吏養成機関にも入り込み、民権思想圧迫の理論的支柱として利用されることになったのである。
  そしてこうした東大学内の変化の中で社会進化論鼓吹の役割を果たしたのがアーネスト・フェノロサであったのである。
フェノロサは、ハーバード大学の哲学科を首席卒業という成績をおさめながら、日本にやってきた背景には、父親の自殺というものがあった。自殺はキリスト教では罪と定められているために、人々の視線に晒されていたフェノロサがちょうど新天地を求めようとしていたその時に東大の求人情報(前年に渡日して教鞭をとっていた動物学者エドワード・モースが募集)があったという「めぐり合わせ」があった。
彼はこの求人に運命的なものを感じそれに応じたのである。
もうひとつの背景をいうと、彼の生地マサチューセッツ州セーラムは、1692年に西洋史上悪名高い魔女裁判で約200名の女性が告発され、25名が処刑・拷問死したという狂信的に保守的な町だ。セーラムの風土への嫌悪感からかキリスト教から遠ざかりたかったという背景も考えられる。
そしてフェノロサは、東京大学で哲学・理財学の他、社会進化論の講義も担当する。そして彼の講義は自由民権思想への防波堤あるいは牙城となっていく。
東京大学という最高学府で西洋思想はキリスト教ばかりではないことを外国人教師自身が示すことに大きな意義があったのだ。

他方、フェノロサは来日後まもなく、仏像や浮世絵などの日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると同時に全国の古寺を旅した。
フェノロサがこの国で大きな役割を果たす上で重要な人物が学生の中にいた。顔を見なければ外人と思うほど英語が達者な岡倉天心である。
フェノロサと岡倉との間に真の交友が生まれたというわけではないが、二人は美術を糸口として時と場所を共有することが非常に多かったということがいえる。
フェノロサは日本伝統美術の研究をしようとしたが書物が読めないので、よく岡倉にいろいろ書物を調べるように頼んだ。
皮肉なもので、この経験が岡倉の伝統美術に関する基礎学習となった。いわば、日本美術についてのフェノロサの勉強は同時に岡倉の勉強を伴ったのである。
また調査資料をフェノロサのために英文で作成することは、後年岡倉が英語で執筆をする上での貴重な訓練になったと想像できる。
さてフェノロサが日本にきた時代は廃仏毀釈運動が吹き荒れていた。明治天皇や神道に権威を与える為に、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で破棄されていたのだ。
 そしてフェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受ける。
そして日本美術の保護に立ち上がり、自らの文化を低く評価する日本人に対し、それらが如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁した。
1880年に誕生した長男の名前であるカノーは「狩野」派に由来するものだった。同年、フェノロサは文部省に掛け合って美術取調委員となり、学生の岡倉天心を助手として京都・奈良で古美術の調査を開始した。そして法隆寺など救世観音像などの秘仏の開帳などを行っている。

フェノロサは日本の美術を保護した点では評価すべきだが、一方で日本の夥しい美術品を海外に安く売りさばいたという事実によってかなり減殺されるものであろう。
しかも彼のこうした行為は明治政府によって罰せられることもなければ追求されることもなかった。
民権思想と国権思想のせめぎあいの中、彼の価値は芸術的なものではなく政治的なものであったといえるかもしれない。
しかしそれにしてもキリスト教をル−ツにもつ思想(民権思想)と進化論から派生した思想(社会進化論)が東京大学を舞台にこういう形でせめぎあうとは。そこにフェノロサが組み込まれたという、彼の「めぐり合わせ」だった。そのフェノロサも1908年ロンドンで客死している。