ビデオで名作映画「ショーシャンクの空の下」を見た。
1947年.若くて有能な銀行の副頭取アンディーは不倫にはしった妻とその愛人を殺害したという疑いをかけられ無実を訴えるものの終身刑となりショーシャンク刑務所に服役する。アンディーが入所してから20年目、アンディーの妻と愛人の殺害について知る人物が入所してきた。彼は別の刑務所でアンディーの妻を殺害したという男の話を聞いたのである。
アンディーは無実を看守に取り合ってもらおうとするが無視されついに脱獄を敢行する。
この映画はフィクションであるが、この映画を見て日本のある冤罪事件を思い起こした。

1949年8月6日の夜、青森県弘前市で弘前大学医学部教授の夫人(当時30歳)が刃物で殺害された。 警察は現場から道路に点々と付着していた血痕を追跡し、その血痕が途切れた所にある家の男当時25歳を逮捕した。男性はアリバイがあるとして容疑を否認したが、着ていた開襟シャツに付着していた血痕などを証拠としてこの男性を起訴した。この男性、歴史上有名な男性は那須与一の子孫であるということであった。
1953年に最高裁懲役15年の刑が確定した。別の刑務所で三島由紀夫割腹の衝撃的ニュ−スが広がっていたある日のこと、受刑者の中でいわば「犯罪自慢」が行われていた。その中で弘前大学教授夫人の殺害は自分がやったというものがあらわれた。それを聞いていた受刑者が出所後に新聞社にたれこんだのだ。そして真犯人は時効をしっかり確認した上で自分が犯罪を行ったことを告白した。
那須氏の再審請求がはじまった。1974年に再審請求は一旦棄却されたが、1976年に再審が開始された。証拠の血痕は人為的捏造の可能性が高いと裁判所は判断し1977年2月15日、発生から28年後、那須氏にようやく無罪判決が言い渡された。
那須氏は年老いた母親や支援者のもとで無罪を勝ち得ることが出来たと 感謝の意を表した。
那須氏の「幸福でなくてもいい。普通の人生を歩みたかった。」という言葉が印象に残った。

1913年8月13日の夜、現在の名古屋市千種区の路上で繭小売商の男性が殺害され、金銭が奪われた。翌日被疑者として2人の男性が逮捕されたが、彼らの供述から主犯として吉田石松、当時34歳が逮捕された。
だがこの供述は共犯者が自分たちの罪を少しでも軽くするためにまったく無関係の第三者であった吉田氏を主犯にすりかえたものであったことが後に判明する。
当時捜査の過程で吉田氏に厳しい拷問を加えられたが、吉田氏は終始否認を続けた。それにもかかわらず、天皇の名のもとに「従犯」とされた2人に無期懲役、吉田に死刑が言い渡された。
吉田氏は小菅監獄に入れられていた1918年からアリバイの成立を主張して2度の再審請求を行ったが棄却された。吉田は無実を訴え、獄中で暴れてたりしてたため網走へ移動させられ、そこでも同様な行為を繰り返したために今度は秋田刑務所へ移された。
この秋田刑務所の所長が吉田氏に光明を与えた。所長はこの事件の不審な点について調べなおし、吉田が関与していないことに気づき、仮出所の手続きを試み吉田氏に再審請求を薦める。
そして吉田氏は1935年3月に仮出獄し自分を陥れた二人が5年前に仮出所していたのを新聞記者の協力の下探し出し、二人から虚偽の自白をしたことを認める「詫び状」を1936年11月に受け取ることができた。
新聞記者が「今様巖窟王」として掲載したため吉田岩窟王と呼ばれるようになった。
この「詫び状」をもとに吉田氏は戦争をはさんで4度の再審請求を行ったが受け付けてもらえず拒否された。しかしこの頃になると世論の関心も高まり、日本弁護士連合会が特別委員会を設置し国会も人権擁護の観点から動き出した。
そのため1960年4月には5度目の再審請求を名古屋高等裁判所が認めたが、検察側が現行刑事訴訟法に基づいて異議申し立てを行い一度は取り消しになったものの、ついに再審が決定し1962年12月6日から名古屋高等裁判所で再審公判審理が開始された。
そして1963年2月28日に吉田氏のアリバイが成立することを認め無罪判決を言い渡した。
この判決は冒頭で「実に半世紀にも及ぶその無実の叫びに耳を藉(か)す者からは、被告人はエドモンド・ダンテスになぞらえられ、昭和の巖窟王と呼ばれるにいたったのである。」と本件の経緯について説示し、判決文の最後では「これらの事情が相俟つて被告人の訴追をみるにいたり、わが裁判史上曽つてない誤判をくりかえし、被告人を二十有余年の永きにわたり、獄窓のうちに呻吟せしめるにいたつたのであつて、まことに痛恨おく能わざるものがあるといわねばならない。」
「ちなみに当裁判所は被告人否ここでは被告人と云うに忍びず吉田翁と呼ぼう。吾々の先輩が翁に対して冒した過誤を只管(ひたすら)陳謝すると共に実に半世紀の久しきに亘り克くあらゆる迫害に堪え自己の無実を叫び続けて来たその崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき類なき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ翁の余生に幸多からんことを祈念する次第である。」と締めくくられている。
そして判決宣告後には、出廷していた裁判官3人が「吉田翁」に頭を下げる場面があった。
吉田氏は無罪判決からおよそ9ヵ月後1963年12月1日に老衰によって永眠した。享年84歳。
不当に身柄を拘束された月日は21年7カ月7日(7889日)であった。

1948年12月30日、熊本県人吉市で祈祷師夫婦が殺害され、娘二人が重傷を負わされ、現金が盗まれた事件で翌年、警察は熊本県球磨郡免田町在住の免田栄、当時23歳を、殺人容疑で逮捕した。
同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第一審の第三回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日にはアリバイがあるとして無罪を主張した。
しかし1952年1月5日に最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。 免田氏は6度目の再審請求が承認され、1979年9月27日に再審が開始される。 再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘され、1983年7月15日、発生から34年6ヶ月後、無罪判決が言い渡された。
しかしこれで免田氏の戦いが終わったわけではなかった。
故郷に帰った免田氏を村人は祝ってくれた。しかしそのうち周囲の人の視線がだんだん冷たくなっていくのに気づいた。免田氏はこの時のことを「犯罪を犯したかではなく刑務所帰りである」ことが問題だと、吹っ切れない気持ちをテレビで語られている。
下世話な言い方ではあるが免田氏に支払われた多額の補償金に対する気持ちもあったのかもしれないとも思う。免田氏は結局、故郷で平穏に暮らすことはできずに大牟田市に引越しをされた。

私は不幸な「めぐり合わせ」によりその人生の大半を奪いとられた人々に何か浄化されたものを感じる。
弘前大学教授夫人殺害事件の那須氏は、真犯人に対しては恨みの気持ちはなく逆に、勇気をもって名乗り出てくれたことに感謝の意を表したという。
 松本サリン事件で容疑者とされた河野さんは「人生には何一つ無駄はないと思っています。犯人とされ最悪の事態の時も神に祈るのではなく、神の意志がそうであればそれに添えるようにと、ただ、必要があれば、神の意志で救われるのではというのが、私の宗教観です」と語られている。
支援者達への感謝の念もあるのだろうが、幾夜もの苦悶を通り抜けようやく無罪を宣告された人々の表情に何がしかの「浄さ」が漂っているのを見つけるにつけ、「不条理な苦しみほど人を浄くする」などと思うのは、不謹慎なことだろうか。