エンタの神様が微笑んだ



森田一義(タモリ)は黒田藩家老の森田家出身。福岡の進学校から早稲田大学へと進学する。ここでモダンジャズ研究会に所属するが、授業料未納のため除籍処分となる。
にもかかわらずモダンジャズ研究会には相変わらず顔を出していたようである。同期には吉永小百合もいた。学食で吉永が皿に残したおかずを彼女が去った後にこっそり食べたというサユリスト。
福岡に戻った森田は保険の外交員、喫茶店、ボ−リング場の支配人などをしていた。 博多でジャズコンサ−トがあり山下洋輔らが宿泊するホテルのバーに森田はたまたま来ていた。
階上の部屋で山下らがどんちゃん騒ぎしている時、森田が少しあいたドアの中を覗き込んだところ、山下らメンバ−の一人でゴミ箱をかぶって虚無僧姿になっていた男がインチキ朝鮮語で話しかけた。森田はインチキ中国語でそれに答え、そのそのまま夜が明けるまで一緒に騒ぎ続けたという。翌朝そのまま会社に出勤する森田は名前だけを言い残して虚無僧のごとく消えた。
しかし山下らの脳裏にあの博多の面白い男のことが消えない。山下は森田がジャズをやっているに違いないと直感し、博多中のジャズスポットを探しついに森田を探し当てた。山下は彼を上京させるべく「森田を東京へ呼ぼうの会」を発足させた。
森田は会社を辞めて上京し、山下らのうわさ聞きつけて出会ったのが漫画家の赤塚不二夫だった。赤塚は森田の異才ぶりに感心し彼を自宅に居候させることを決めた。そして森田はマンション住まいでベンツを乗り回す堂々たる高級居候になったという。
 そして「ハナモゲラ語」「四ヶ国語マ−ジャン」などで世に知られていく。
森田がもしまともに大学を卒業していたら、どこかの会社で腕のいい営業マンとして成功していたかもしれない。そして山下や赤塚と出会うこともなかったであろう。
エンタの神様はこの男の後ろ姿をずっと追っていたのかもしれない。

 熊本出身コロッケこと滝川広志が物まね形態模写を始めたのは姉の影響である。姉は物まねですでに高校の大人気者であった。あの姉の弟ならということで入学前から滝川を皆が待ち構えていた、というから姉の力はスゴかった。
母親はホテルの活花係りとして女手一つで姉と広志を育て上げた。 母親が仕事を遅くなると、二人で物まねをして互いに批評などをしたりした。テレビの音を消して画面に合わせて即興の物まねをし二人で芸を磨いていったという。高校の文化祭で滝川は桜田淳子の物まねをして学校開闢以来の爆笑を引き起こし、ひとつの事件となる。
先に芸能人になりたいとい言い出したのは姉の方だった。滝川は母と共に「そんな無理バイ」と反対し姉の上京を引き止めた。
 滝川は、新聞配達の後、熊本市内の水前寺公園で一人、形態模写の技をみがいていった。物まねのレパ−トリ−を広げていくうち、ついに意を決して近くのスナックで大人達にその芸を披露する。この時、エンタの神様も大笑いしたにちがいない。
スナックのママにも良くしてもらい、自分の芸が大人にも通じることを知るや芸能界への夢が広がっていく。そして今度は家族にウムを言わせず上京する。
「お笑いスタ−誕生」で10週勝ち抜き物まね形態模写の第一人者となっていく。 共に技を磨いた姉がいたこと、スナックのママとの出会いなど、滝川という「コロッケ」が焼きあがるためには良い油に恵まれていたとは、友人の武田鉄也の弁である。
母から滝川が教わった忘れえぬ言葉がある。それは“あおいくま”。「あせるな」「おこるな」「いばるな」「くさるな」「まけるな」の言葉それぞれから頭文字をとったものである。

山口出身の松村邦洋の生家はもともと江戸時代から商取引をしており、一方で戦前までは質屋をしていた。田布施農業高等学校時代、ラジオ番組にアルバイトでADをしていた頃、たまたま物まねをしたところ人気者になり地元山口や広島のラジオに出演した。
有名人となると同時に地元の暴走族のリーダーに気に入られ追いかけ回された。族のメンバ−を避けて日頃とは違う次の駅で降りるとバイクに乗った族メンバ−が先回りして待ちかまえており、早速物まねをやらされた。
メンバ−は松村の芸を細かく批評し「次は四分にまとめて来い」などという課題までださてしまう。
また自分の地の声をちゃんと作っておけ、そうすればものまねした時とのギャップが生まれてもっとウケる、などといった玄人はだしのアドバイスをもらった事もあった。
高校を4年かけて卒業後、九州産業大学に進学した。
テレビ西日本でアルバイトをしていた時、エンタの神様が微笑んだ。その特異なキャラクターとものまねの才能に注目したのが片岡鶴太郎だった。松村は大学を中退して上京する。フジテレビの「オールスター・ものまね王座決定戦」の常連として、ビートたけしや掛布雅之を真似た絶妙の演技で人々に知られていった。
貴乃花親方や小泉純一郎など現在も物真似のレパートリーは増え続けている。
ところで松村の父親は大の阪神ファンで、松村も高校時代は軟式野球部に入る。「デブはキャッ−チャー」の方針の下、キャッチャ−を務めるが1試合で27盗塁を許したジッセキは今も語り告がれている。
大の阪神ファンなのに山口出身・広島東洋カ−プの炎のストッパ−故津田恒実を大変に尊敬しており、正月に帰省した際には墓参を欠かさないという。