黒澤映画が世界の映画に与えた影響ははかりしれない。
私が個人的に黒澤明に興味をいだいたのは、黒澤の作品の影響を実際に外国映画の中に見出してからである。
「スターウォーズ」の悪の権化・ダ−ス・ベーダのヘルメットと代表作「七人の侍」の中に登場する野武士の頭の鎧兜がまったく同じ形なのに気づいたからである。
またダ−ス・ベーダの刀で戦う時の動きも日本の侍映画からの影響が明らかである。私が高校時代にみたアメリカ映画「荒野の七人」は、黒澤映画「七人の侍」のアメリカ版といってよい。またクリント・イ−ストウッド主演のマカロニウエスタンの用心棒シリーズは黒澤映画の三船敏郎主演の「用心棒」などをうけついだものである。
最近スターウォーズのノッポとチビの2人組のロボットが登場するが、これは「隠し砦の三悪人」に登場するコケチッシュな2人組のイメイ−ジから作られている。
また黒澤の映画の中には、世界文学の素地があることにも興味を持った。森雅之主演の「白痴」は、同名の小説から、「蜘蛛の巣城」はシェークスピアのマクベス、「七人の侍」はトルストイの「戦争と平和」が大きな影響を与えたといわれている。
黒澤が理想とする人間像が「武士」という伝統的な人物像にあったからこそ黒澤は映画で「武士」の姿を多く描いた。その意味で主人公の多くは黒澤自身の分身でもあった。
「七人の侍」では、百姓に金で雇われるのではなく、哀れな百姓の不幸を見逃しできずに名利をかえりみず、略奪者である武士と身命をかけて戦う武士達である。
ところで黒澤明は完全主義者であったといわれ、例えば背景となる空に望んだ形の雲が表れるまで撮影のタイミングを待ったという。
また「七人の侍」では村探しには多大な時間とエネルギーを注いぎ、静岡県長岡市下丹那に村落のオープンセットをつくり、熱海の閑静な旅館・水口園に4人で45日の間の投宿した。
まずは詳細な絵コンテによる登場人物や風景の彫琢を行い、共同執筆つまりー同じストーリーを2人でシナリオを並行して書き良い方を選ぶというやり方をとった。
シナリオにゆきづまり1週間も4人で呻吟することもあり撮影は延々と延び、病気、天候不順などもあって、撮影日数は148日で通常の4倍、予算は5倍の2億一千万円という巨額に膨れ上がり、映画中止の話も何度かでたという。
そうして完成した映画「七人の侍」は、日本の映画史上に残る名作となったのである。


黒澤明が「七人の侍」に取り組んでいた頃、東宝特殊技術課嘱託に円谷英二がいた。
円谷は幼少の頃は工作が好きで近所の評判になったほどであった。
飛行機が好きで見習い工員をした後、飛行機気乗りになろうと日本飛行学校に入ったが、教官が事故死して学校は閉鎖。その後、玩具会社の考案係りとして働いていた時に映画化入りの勧めがあった。これが彼にとって大きなめぐりあわせとなった。
1919年天然色活動写真という会社に入り撮影技術を学んだ。そして映画の中の「夢の中のシ−ン」などで、特撮を試みる機会が訪れたのである。そして1933年アメリカ映画「キングコング」を見て、この映画のこそが彼がめざすべきものとなったのである。
日活から東宝に移り、1940年代は戦争映画の撮影を担当する。特に「ハワイ・マレ−沖海戦」は彼の撮影技術が遺憾なく発揮された傑作といわれている。
実は、日本における映画技術は、「戦意高揚」のための映画づくりによって磨かれていったのである。それは太平洋戦争の「負の遺産」ともいえるが、アメリカのウォルトデズニ−でさえそうした戦争映画に関わっていた時代である。
アメリカの陸・海軍はそうした「戦意高揚」映画に全面協力し撮影のための本物の飛行機や戦車をいつでも動かしてくれたが、日本の映画つくりには、実際の飛行機を飛ばしたり、戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」という技術を開発せざるを得なかったのである。
また日本軍部は機密保持がきわめて厳しく資料や写真も公開してくれなかった。
そこで ミニチュアの飛行機をワイヤ−で吊るして飛ばし、大きなプ−ルに模型の戦艦を浮かべた特撮セットがつくられ、「らしく見せる」ための様々な工夫がなされたのである。日本の特撮技術の向上にはそうしたお家の事情が作用していたのである。
実は、円谷英二が戦後、東宝の特殊技術課で、「ゴジラ」を生みだしていくきっかけとなたのが、1954年の第五福竜丸の被爆であった。つまり、水爆実験により、前世紀の恐竜が日本近海に現われて東京を襲うというスト−リ−が生みだされたのである。
そして1960年代に円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。こうした怪獣映画も戦争映画で磨かれた特撮技術をもって実現したのである。戦争が終わり日本で高度経済成長がはじまった1960年代に日本は世界トップクラスの特撮技術をもっていた。 特に新東宝の特撮技術・設備は世界一を誇っていたといえる。

もうひとり円谷と同じ撮影所に西本正というカメラマンがいた。ブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ格闘シーンはブルースリーの映画の中でも白眉といってよいが、このシーンをとったのが西本正であった。
 西本正は1921年2月、福岡に生れた。少年時代を満州ですごし満映の技術者養成所に入った。1946年、敗戦とともに日本に帰り、日映の文化映画部をへて1947年新東宝撮影部に入社した。
 新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ1950年代には香港へ渡り、以後ブルースリーの映画の撮影などを行った。香港に渡った西本正は、日本の高度な映画技術を伝達し「香港カラー映画の父」とも呼ばれた。
  ブルースリーを撮った男・西本正は、香港映画ばかりではなく日本のホラー映画の撮影でも新境地を開いた。新東宝の中川信夫監督の下で撮影したホラー映画の傑作「亡霊怪猫屋敷」(1958)や「東海道四谷怪談」(1959年)にもこうした技術が存分に生かされている。
 私は1983年にアメリカに1年間ほど遊学した際に、サンフランシスコのチャイナタウンで多くの香港映画を見たが、一番印象に残ったことは香港映画の中でもホラー映画の中に特撮技術がふんだんに使われていることであった。
こうした香港映画の特撮技術の背景には日本と香港の映画交流の橋渡し役を担った西本正の存在があったのである。
西本正は1997年になくなったが、現在、世界を風靡しているチャン・ツィイ−の主演映画である「HERO」などの特撮技術の背景には、遡れば西本正の撮影技術があったのである。