キラ−ストリ−ト


いつか歩いてみたいという通りが3つあった。
一つめは東京の広尾から麻布を通り六本木に抜けるいわゆる大使館ストリ−ト、外国の大使館の密集した区画でこここを歩けば多少の異国体験ができると期待して歩いてはみたがそれほどのものではなく、六本木ヒルズを背にした麻布十番温泉に出くわし一風呂あびて「オヤジ」のノリでしめくくった。
この通りに近い善福寺は、幕末ハリスが滞在して日本で初のアメリカ合衆国公使館となった場所でいわば大使館ストリ−トの起源となっている。また善福寺の近くの麻布ヒルズという建造物の奇観に惹かれた。

もう一つは大阪道修町をぬける通りで、大阪の淀屋橋付近のビジネスホテルの在処を地図で探している時にこの通りを発見をした。
わずか300メートルの区画に一流薬品会社の本社が密集しているのである。藤沢薬品・塩野義製薬・田辺製薬・大日本製薬・武田薬品・住友製薬・小野薬品などの会社である。
この町が薬の町となった理由は江戸時代よりこのあたりに薬種中買仲間が置かれた場所であったためである。大坂は江戸時代には「天下の台所」とよばれ多くの問屋が集まったで所あったことを思い出した。
道修町には少彦名神社が鎮座して薬の神様ということになっており近くには鴻池本宅跡の碑、銅座跡の碑、懐徳堂跡の碑、除痘館跡の碑などの碑がある。
またこの町は、谷崎潤一郎が描いた小説「春琴抄」の舞台となった場所で少彦名神社内には「春琴抄の碑」が立っている。

もう一つは東京青山の「キラ−通り」である。こちらの通りはいまだ歩いたことはない。青山通りのイチョウ並木から青山通りを渋谷方向へ進むと外苑西通りと交差する。外苑西通りは新宿御苑に向かって延びているが途中の神宮前三丁目辺りまでがキラー通りと呼ばれている。
ギャラリ− ブティックなどファッションセンスあふれる店が並び、路地を入れば原宿教会やブラジル大使館といった建物も見られる。キラー通りを散策すると1960年代からの日本現代建築の秀作を多く目にすることができ現代建築アートのいわば「ショウ・ウインドウ」といっても良い場所である。
 都市型建築の代表として世界的にも有名な「塔の家」は猫の額ほどの敷地のうちに立ち、また安藤忠雄設計の「大東京信用組合」のビル、黒川紀章設計の「ベルコモンズ」などの建築物が目をひく。
また1960年代に一世を風靡した日本の代表的アパレル企業である「VAN」が産声をあげたのもこの通りで、その後「VAN」は日本のファッションシーンの最先端を走り続け「みゆき族」なる言葉も生まれた。
この街の名づけ親は当時から既に頭角を現わしていたファッションデザイナーのコシノジュンコさんで外苑前のブティックを南青山4丁目の外苑西通沿いに移して以来この名前をつけたそうだ。
名刺の地図に「キラ−通り」と書いたり、タク−運転手に「キラ−通りまで」と言ったりしてその名前を広めたという。
この街の名前が人々に受け入れたのも1960年代後半「恋の季節」を歌い記録的な売り上げを示した「ピンキーとキラーズ」の記憶があったからではないだろうかと思う。つまり「キラ−」という言葉がク−ルでかっこよいというイメ−ジと結びついたのだ。
確証はないがコシノさんはある種の軽いノリでこの名前を付けたのだと思う。そのほうが故郷・岸和田の「だんじり祭り」をこよなく愛するコシノさんらしい。
逆に言うとノリやシャレで「キラ−」という名前がつけれるほどにこの街は平和な街だったともいえる。
もっともこの通り、信号機が一つもなくカミナリ族やら車でスピードを競い合う若者達がビュンビュン走り回り事故も多かったからとか、また殺人的な渋滞で名がついたとかという説もあることはあるが。
今にしてみると「キラ−通り」の命名は正鵠を射ている。
Killには「殺す」以外にも「魅了する・悩殺する」の意味がある。アイビ−ルックの教祖石津謙介、サイケデリックファッションの先鞭者コシノジュンコ、ボクシングのファイトマネーを手に独学で建築を学んだ安藤忠雄、などなど錚々たるキラ−達の名を刻んでいる通りである。
名前にも不思議な「めぐり合わせ」がある