対反ムダ


ダム建設とそれにまつわる問題について興味をもったのは、東京の奥多湖を守り続けた一人の盲目の老人のことを知ってからである。この老人の「めぐり合わせ」というものを知りたくなったからである。
奥多摩湖は人造湖であり竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池であった。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇り東京都の水瓶になっている。
 このダム建設にあたって水没したいくつかの村がある。村にダム建設の話がもちあがったのは1931年6月、水利権の問題などで川崎市や神奈川県との交渉や補償問題でもつれダム建設は頓挫する。
いつダム建設が始まるかさえわからず耕作もできない農家は娘を売るほどに困窮していき、彼らの土地も企業の手に落ちていく。
計画発表から6年ダム建設は宙吊りになったまま、1937年たまりかねた農民はムシロ旗を掲げ内務省などにおしかけダム促進の陳情に成功し小河内村と東京府の間にダム建設の調印が行われた。しかし足元を見透かされた農民にはほんの僅かな補償金しか与えられず、満州開拓団などとして四散していく。
しかし戦争が激化に伴ない資材不足などからダム建設は再び頓挫する。ダムが最終的に完成したのは1957年で計画発表から四半世紀が過ぎていた。
 インタ−ネットで次の記録に出会った。「貯水池となる小河内村,丹波山村,小菅村の関係村民は,この計画について一時こぞって反対した。ここは古くから独特の地方文化を有し、人々は貧しいながらも先祖伝来の土地を守ってきた。墳墓の土地を離れることには大きな不安があった。しかし滅私奉公の風潮,国家のため、皇都東京のため,という説得に、当時の純朴な村人は純粋な自己犠牲の精神を発揮し、涙をのんでダム建設を承諾して故郷を離れることにしたのである。」
 東京の繁栄の犠牲になったような村の姿がよく伝わってくる。
かつてのダム促進運動の先頭にたったのが原島正国さんである。
この村が水没して以後も湖畔にとどまり、白内症により視力を完全にうしなったものの、湖の姿は心の内でよく見えている。  この湖が渇水の時にかつての村が成仏できない幽鬼のように現われ出でそんな時に、かつての村人の姿が湖の周辺にちらほら見られたそうである。
自分達が耕した畑、幼い頃に遊んだ原っぱや渓谷、そして学校や郵便局や村役場に水がなだれ込み、長年親しんだ村の空を水が覆い、懐かしい記憶や思い出のすべてが水に呑みこまれていく。村人の心はいまでもその一部は水に没したままなのである。
   原島さんはこの湖水をきれいに保つことが、水没した村に対する供養だと思っている。
 
 小河内村の人々はさしせまった補償金の必要性から「ダム促進」を願ってのムシロ旗であった。他方小河内でダムが完成したその年から「ダム反対」のムシロ旗を掲げ13年間にもわたる最も激しい戦いが大分県日田の下筌・松原地区で展開された。 
    先頭に立ったのは室原知幸。総資産4億の戦国時代から続く山林地主である。この地方ではあの北里柴三郎を生んだ北里家と勢力を二分する山林地主である。山林地主はマッカ−サ−の改革の対象にはなっておらず、室原はその資力を背景に国の公共事業に対して真っ向から戦いを挑む。
1957年、下筌・松原地区のダム建設計画が持ち上がった。
 早稲田大学を卒業した学士・室原はその昼夜を別たぬ勉学と精神力をもってダム建設を推進しようとする公権力との戦いを続けた。地元住民は、建設予定地に監視所を建て杉材を使って砦を築いた。ムシロ旗を立てたダム周辺の絵はまるで蜂の巣のような様相を呈していくのである。
   日田地方の杉は、巨木で知られる鹿児島県屋久島の屋久杉、宮崎県日南地方の 飫肥杉とならんで、九州三大美林として有名である。日田地方の中心地 日田市は、 下駄 家具 日田漆器など木工業がさかんである。公共性をもつ事業という理由で、公権力にこうした美林をどこまで踏みにじることが許されるのか。
 山を守る法廷闘争のための資金を捻出するため木を切り出すいう矛盾もおきていく。また長い闘争の中、補償金をもらって仕事を他に求めるものも多く、城主・室原の戦いはしだいに孤立していく。
室原氏は、蜂の巣の攻防の終わり頃、訪れる人に「ダム反対」を何とよぶかと問いかけ、「対反ムダ」と読むと言ったそうである。
  しかし室原氏の戦いはけしてムダではなかった。
室原氏の基本的スタンスは「法には法」で、国が振りかざす法にたいしては、その法的な弱点をそれこそハチのスのようにつついたのであった。室原氏が出した訴訟件数実に75件に及んでいる。そこに当時の公共事業に関わる法的な問題点のほとんどを浮き彫りにしたのである。
室原氏の提唱する「理にかない、法にかない、情にかなう」という公共事業のあり方は、原則としては今も生きている。
 ダムを訪れて何か不思議な哀しさを覚えるのは、自然が深く斬り崩されているということか、住民が敗れてダムが残ったということか、それとも水没した村への思いか。
目の前に広がる満々たる水の重さがそのまま故郷を沈めた人々の心の重さを伝えている。