「職業」を意味する英語には「Occupation」、「Vocation」、「Calling」などがある。
「Occupation」は、日常的に時間を割く仕事で、「Vocation」は本人の適性に基ずく天職、「Calling」も天職だがこちらの方は神の呼びかけに応じた仕事である。
人は仕事をそれほど意思的に選んでいるのではなく、多くは「めぐりあわせ」や「なりゆき」によって選んでいるのだと思う。当時まだ誰も手がけていなかった教会堂建築やオルガン製造に携わることになった人々もそうだった。
彼らはシュバイツア−やナイチンゲ−ルのように「神の使命」を知って仕事を選んだ偉人ではない。ただ彼らが磨いた技術を信頼した誰かの「お呼び」がかかってその仕事に携わったにすぎない。
しかしそこには本人の意志を超えた「Calling」を感じさせるものがある。
教会堂建築とオルガン製造に関わった二人の「コ−リング」の話をしたいと思う。

鉄川与助は、1879年、五島列島中通島で大工棟梁の長男として生まれた。五島は隠れキリシタンが非常に多い島であった。幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。
 鉄川家の歴史は室町時代に遡りもともとは刀剣をつくった家であり鉄川家がいつ頃から建設業にかわったのかは正確にはわからない。ただ鉄川元吉なる人物が青方得雄寺を建立した事実が同寺の棟札に記録されている。
明治になるとキリスト教解禁となり、長崎の地には教会堂が建設されることになった。鉄川家は地元の業者として初期の教会建築に携わってきたが、日本の寺社建築に装飾としてキリスト教的要素を加えるものにすぎなかった。
私は愛知県の明治村を訪れた際に、寺院建築と教会堂建築の習合形式の初期の建造物・大明寺聖パウロ教会をみることができた。
鉄川家のもう一つの転機は、1899年フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった曾根天主堂の建築に参加したことにあった。これをきっかけに鉄川組は神父から西洋建築の手ほどきを受けて田平教会のリブヴォルト天井の建築方法などを学んだという。
1906年に鉄川与助が家業を継ぎ、建設請負業・鉄川組を創業したとされている。与助は家業をひきついで以来、主にカトリック教会の建設にあたってきた。 その工事数はカトリック教会に限っても50を越えその施工範囲は長崎県を主として佐賀県、福岡県、熊本県にも及んでいる。そして長崎の浦上天主堂、五島の頭ケ島天主堂、堂崎天主堂など今もそれぞれの地方の観光資源となっている。
原爆によって破壊された浦上天主堂も鉄川組によって最終的に完成された。特に旧浦上教会の設計者・フレッチェ神父との出会いは、鉄川与助にさらに大きな技術的な飛躍を与えた。
浦上教会の完成後、鉄川与助は福岡県筑前町の今村教会の設計と建設をはじめ最数的に双頭の教会を完成させた。
双頭の教会は日本では数が少なく鉄川与助がたどりついた西洋キリスト教建築の水準に到達している。 今村教会の特徴はレンガの幅がひとつひとつ異なる点やレンガで薔薇窓を作った点も大きな特徴となっている。
開口部を煉瓦で組む時には、煉瓦でお互いの重さを支えあっているので建設者は息つくまもなく働いたという。
鉄川与助はその人生の大半を教会堂建築にささげ1976年6月5日97歳でなくなった。

日本国産オルガン製作は意外な展開から生まれた。
1851年山葉寅楠は紀州で生まれた。徳川藩士であった父親が藩の天文係をしていたことから、山葉家には天体観測や土地測量に関する書籍や器具などがたくさんあり、山葉は自ずと機械への関心を深めていった。
手先の器用さも知らず知らずのうちに培われていった。やがて明治維新とともに世の中は急展開し、1871年単身長崎へ赴き、英国人技師のもとで時計づくりの勉強を始めた。その後は医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に医療機器についての勉強をした。
1884年、医療器械の修理工として静岡県浜松に移り住んだが、医療器械の修理だけではとても暮らしを立ててはいけず、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をささえた。
浜松尋常小学校の校長が音が出なくなった外国産のオルガンを前に修理工を探していた。そんな折、校長は山葉のうわさを聞き彼に修理を依頼した。
「音楽のまち・浜松」の種は実はこの時播かれたといってもよい。
 校長の依頼を受けて修理に出向いた山葉は、ネジを慎重にゆるめながら故障の原因を探りだした。ほどなく故障箇所をつきとめるとおもむろにオルガンの構造を模写しはじめた。山葉の脳裏にオルガンの国産のビジョンが広がっていったのである。
山葉は、将来オルガンは全国の小学校に設置されると見越し、すぐさま貴金属加工職人の河合喜三郎に協力を求め国産オルガンの試作を開始した。試行錯誤2ヵ月の末オルガンが完成し、浜松の小学校と静岡の師範学校に試作品を持ち込むがその評価は極めて低かった。
何かがたりないと二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で審査を受けることにした。当時はまだ東海道本線は未開通で二人は東京まで実に250kmを天秤棒でオルガンをかついで運ばなければならなかった。二人は「天下の嶮」で名高い箱根の難所もそれで越え二人の記念碑が箱根の峠に立っている。
音楽取調所の伊沢修二学長は二人が持ち込んだオルガンを形はいいが調律が不正確で使用にたえないと分析した。彼らは伊沢の勧めにしたがって約1ヵ月にわたり音楽理論を学んだ。
山葉は再び浜松に戻り、河合の家に同居しながら本格的なオルガンづくりに取り組んだ。
苦労を重ねながらも第2号のオルガンが完成し再び伊沢学長の審査を仰いだ。
伊沢は、第二号オルガンが舶来製に代わりうるオルガンであると太鼓判を押し、二人は言葉もなく涙を流したという。これこそ、国産オルガンの誕生の瞬間であった。
こうしてオルガン製作を進めながらも山葉の頭を離れなかったのは「ピアノの国産化」であった。1899年、単身アメリカに渡った山葉は精力的にピアノ工場をまわり翌年からアップライトピアノの生産を開始し、1902年にはグランドピアノを完成させた。1904年にはセントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに名誉大賞が贈られた。

鉄川が建設した多くの教会堂には賛美歌とともにヤマハ製(山葉)のオルガンの音色が響いているにちがいない。
ノアの箱舟にせよ教会堂にせよオルガンにせよ「天上的」製作(言い過ぎかも)に携わった仕事はやはり「コ−リング(Calling)」とよぶのがふさわしいと思っている。