経済の世界では「所有と経営の分離」というのがおこっている。金も能力(時間を含む)もある人ならば、自分のもつ金を能力や時間に注ぎ込めばよい。つまり自分に投資すればよいわけだ。
しかし世の中には両方とも恵まれている人がそんなに多いわけではない。そこでうまい手がある。
金がある人は能力ある人に投資してその利益の一部を手に入れ、能力ある人は投資された金をつかって能力を発揮する、そしてもうけの一部を金の持ち主にお返しする、とすればすべてうまくいく。
この場合、人間における所有(金)と経営(能力)の分離がおきているわけだ。
だが果たして金融のように、金が能力のある人にスム−ズに投資されるのだろうか、という問題が残る。
中国では昔、村に科挙に合格できるほど優秀な人材がいれば、その人物が官吏として出世して村人を引き立ててくれるという期待の下、村の有力者はじめ皆で人材を支え応援していこうということが行われていた。
日本でも東北の貧しい寒村出身の野口英世が学問をつづけアメリカまで留学できたのも地元の有力者が支えてくれたからだ。

北杜夫の大傑作小説「楡家の人々」には病院長・楡基二郎が病院の中に前途有為な多くの書生を抱えた上、相撲好きが高じて力士までも住まわせている様子が描かれている。
楡基二郎とは、北杜夫の実父である斉藤茂吉をモデルとしており、大正期にはこのようなことがよくおこなわれていたのだろう、と推測する。
ところで日本には伝統的に「食客」(要するに居候)という言葉がある。
高橋是清、犬養毅、前島密、北一輝、幸徳秋水、国木田独歩など後に政治家なり文学者なりで名を成す明治の男たちの多くは、若い頃に食客の体験をもっていた。 そういえばタモリこと森田一義も、山下洋輔らにジャズではなく「黒いお笑い」の才を見出され、赤塚不二男の邸宅に食客として住まいながら、世に知られていくのである。

私にとって最も印象に残る食客は、民族学者の宮本常一である。明治の財閥・渋沢栄一の孫にあたる渋沢敬三は、民俗学や地誌に興味を持ち、もともと学問の道に進みたかったらしいのであるが、成り行き上、実業の世界に進まざるを得ず、大蔵大臣や日銀総裁にまでなっている。
当然、自分の時間がもてず、自分の学問における分身・宮本常一を見出し、その人物を食客として自宅に住まわせ自由に学問をさせたのである。
宮本常一が全国を旅してあの膨大な地誌を残せたのも、出資者(所有)である渋沢が宮本という人生に出資(所有)し、宮本はその実人生(経営)で見事に応えたというわけである。宮本は渋沢に学問的な夢の実現という利益を提供したといってよいだろう。
ある種の才能が人々に感動を与え経済的な利害を超えて資金が集まり、その人物の夢ばかりではなく 出資した周りの夢を実現させていく、そういう人生もあるのだということを思わせられる。
植村直己などの冒険には莫大な金がかかる。そうした冒険のスポンサ−になるのはどういうひとびとなのだろうかと思う。
例えば植村氏がある会社の登山靴や機器を利用して冒険に成功すれば会社の宣伝になる、といった形での経済的な出資ばかりではなく、植村氏の生き方や夢に賛同してスポンサ−になる人も多いのではないだろうか。
海洋冒険家の白川康二郎氏は次のようなことを言っている。「冒険には金がかかる。金を払ってくれる人がいる、私の冒険がどれほど人を感動させるか、経済的なリスクを担うこともまた冒険なのだ」

石油王・出光佐三とある人物との「めぐりあわせ」のことが私に強く印象に残っている。
出光は福岡県宗像の藍問屋に生まれるが、福商・神戸高商とすすみ、大きな会社を選ばずに北九州の小さな石油商会に就職する。
ここで彼は石油の基本を学びそろそろ独立のことを考えていたころ、ある裕福で病弱な人物と知り合いその人物が金をあげるから出光の思い通りに使ってくれという。出光がその金を本当に何に使ってもいいのかと尋ねると、出光にあげたのだからいいように使ってくれ、出光に使って欲しいのだという。
出光の人物を見越しての資金提供であったと思う。
こうして出光は天恵のごとき資金を得て独立し出光商会を設立する。しかし陸の石油販売店網はエリアが仕切られており出光がいりこむ余地は少なかった。そこで海上にでてポンポン船にコストが安い軽油を補給した。これが大当たりして出光商会発展の契機となったのである。
また出光発展の原因として「オ−ダ−油」の発想があった。それまで機械油は、親会社のものをそのまま十把一握に納めていたが、石油の研究をしていた出光は使用する機械に応じて微妙に配合を変えたのである。
こういう「オーダー油」の発想は藍問屋であった出光の実家の家業と関係があると思われる。
出光の父は徳島から藍玉を仕入れて商売をしていた。藍で染める青色にも、濃淡その他の差が自然にある。その取り扱いを業としていた父は絵心がありその原料の配合にも独特のものを出していた。
出光は、父が藍玉を収めるのに注文主の織物の種類によって匙加減を変えていたのを覚えていたのかもしれない。
さらに出光は、当時満州に進出していた日本軍の満州鉄道の車軸の油に注目していた。満州で利用されていたアメリカ製の油は、気温が低い満州では適合せずに、鉄道はしばしば立ち往生していた。出光が納めた油によってそうした列車の停滞はほとんどおこらなくなっていった。
さらに出光の名を世界にとどろかせたのが、タンカ−による直接のイラン石油の買い付けである。 1951年メジャーを離脱し石油施設の国有化宣言を発表したイランは、石油の売り先を探すのにに苦労していた。他方、外国資本を入れずに民族資本であった出光石油は、石油の買い手をいつもメジヤーにはばまれてきた経緯があった。
ここにイランと出光の利害が一致したが、この段階でのイランの国有化宣言はイランの一方的宣言であり、必ずしもイギリスや国際的承認を得たものではなかった。
もし出光の日章丸がイランの港に向かうならばイギリスによって50余人の乗組員とタンカーは拿捕される恐れさえもあった。
この時、出光は男子一生の決断を行ったといえる。日章丸の行き先は船長にしか伝えられずに極秘のうちにすすめられたのである。そしてイランの港に巨大タンカーを横づけした出光佐三は世界をあっと言わせしめたのである。

経済において金を出す人つまり出資者と、経営をおこなう者または組織(株式会社など)が異なることを「所有と経営の分離」という。
人生における「所有と経営の分離」においては、人生の経営者は人生への出資者(所有者)へ監査不要の「夢の実現」という「配当」を払うことになるのである。