白虎隊とピ−タ−パン


「ピーターパン」の作者であるジェイムズ=バリの話から始めよう。パリは1860年スコットランドのキリミュアという織物の町で生まれた。バリが7歳の時、13歳の兄がスケート中に転倒し急死した。
母親は悲嘆にくれた。バリは母親を慰めようと兄の真似をして兄の役割をつとめたが母親は終生悲しみから立ち直ることはできなかった。 そしてバリは、兄は13歳の少年のまま片時も母の胸を離れたことはなかった述懐している。 兄に代わることはできない苛立ちを抱き続けたバリには複雑な感情が渦巻いていた。13歳の死という形で母の愛情を手に入れた兄への羨望である。バリは大学卒業後、新聞記者や劇の台本書きなどで生計をたてた。
結婚したバリはケンジントン公園で遊びに来ていたデイヴィス家の美しい未亡人と幼い息子たちに出会う。 実はバリには子供はなくピーターと名前がついた子供達と冒険ごっこなどをして交流し彼らの遊びや行動を観察しながらピーターパンの構想を得たのであった。

実は、このケンジントン公園からそれほど遠くないところに一人のイギリス軍人が住んでいた。ベーデン=パウエル卿でジェームズ=バリよりも3年はやく1857年にロンドンで生まれている。イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した英雄である。
ボーア戦争が終わりイギリスに帰国したベーデン=パウエルは、青少年が喫煙をしながら無気力にたたずんでいる姿を見てイギリスの将来に大きな不安を感じた。自身の戦争体験の中から自然の中での自発的な活動に取り組むことこそ青少年年の成長に大きな可能性を開くものであると考えた。
1907年にイギリスのブラウンシー島という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行なった。そしてこの実験キャンプの体験をもとに「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。この本に書かれた野外活動のすばらしさは世界の人々の心を動かし、またたくまにボーイスカウト運動として世界に伝わっていった。
1920年に、ボーイスカウト第1回ジャンボリーがロンドン郊外のオリンピアで開催された時、参加34ヶ国の中に日本の参加者もいた。そしてベーデン=パウエルはこの大会でボ−イスカウトの精神に日本の武士道精神を取りいれたことを語った。
そこで日本から参加した3名が英国ボーイスカウト本部へ挨拶に行ったところ、応接間に大きな「会津白虎隊自刃の図」が掲げられており3人はわが目を疑った。 理由を尋ねたところ、ボーイスカウトの創始者ペーデン=パウエル卿が、ボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説していた時、東京において白虎隊の話しを聞き、「自刃の図」を贈られ「この精神こそ、ボーイスカウトの精神なり」と、帰国後油絵に拡大複製したものだとわかった。
ところで英国人はどんなに都会の生活に浸っていてもいつも自然とつながっていたいという願望が強いようである。18世紀、貴族たちは、窮屈な都会の生活から開放されるためにカントリーハウスを建てた。
ロンドンには公園が実に多く自然との接触を常に楽しんでいるようである。故ダイアナ元妃の住んでいた宮殿のあるケンジントン公園は、ジェームズ=バリが「ピータ−パン」の構想をえた場所であり、現在はピーターパンの銅像が建っている。
ボ−イスカウトの創始者ベーデン=パウエルはこの公園の近くに住み自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。ベーデン=パウエルは、ボーイスカウトの実験キャンプの地としてボーンマスの西側のプール湾内に浮かぶ島のひとつであるブラウンシー島を選んだ。
ボーイスカウト発祥の地となったブラウンシー島はローマ時代からの財宝やデンマークの海賊伝説に彩られた島でピーターパン物語の夢と妖精の島「ネバーランド」を思わせる島であった。 ベーデン=パウエルの心の中の永遠の「ピ−タ−パンの像」と日本の「白虎隊への畏敬の気持ち」が奇妙に交錯しボ−イスカウト精神が生まれ、形作られたのである。
ところで私は10数年前福島県会津に旅した際に一番記憶に残ったものが、白虎隊の自刃で知られる飯盛山に建つ古代ローマ宮殿の石柱を象った記念碑であった。この記念碑建設にはどのような経緯があったのだろうか、と調べてみた。そしてこの記念碑とベーデン=パウエルのボーイスカウト運動と関係を見出した。
ボ−イスカウト第1回大会の様子は世界各国に伝えられ、大会前から日本に好意的だったイタリア代表団との親善関係は格別なものであり、白虎隊の話に最も感心したのがムッソリーニであった。 ムッソリーニはイタリアの東洋語学教授で詩人でもあるダヌンチョと親交があった日本の下位春吉を通じて日本武士道や白虎隊士の忠勇物語を聞く機会を得てますます感銘を深くし白虎隊の為に記念碑を贈ってもよいとの意向をもらした。
下位春吉は1883年、福岡県士族の家に生まれた。東京外語大学イタリア語科に学び1915年、語学力を買われてイタリアのナポリにある国立東洋語学校の日本語教授として招かれていたのである。
 その後この話しには具体的な進捗が見られなかったが、東大の物理学者で会津出身の山川健次郎がこの話しを聞き、郷土会津の誇り白虎隊の墓所にイタリア記念碑が建てられるのはこの上ない名誉であり、日伊両国親善の絆になると喜び、イタリア大使館を訪れ、この話の促進の申し入れを行った。 そこでムッソリーニは新しく赴任することになっていた駐日大使に建碑事業を命じ、ローマの碑が白虎隊士の眠る飯盛山に建てられることになったのである。
 「ピータ−パン」と「白虎隊」の「めぐり合わせ」が永遠の少年像となって、ヨ−ロッパの人々の心を揺すぶっているのである。