サンフランシスコのユニオン・スクウェアあたりのビルの谷間から聞こえるジャズの音色、どうしてこんなに五臓六腑に沁みいるのかと感じた。ビルの谷間は自然の音響効果になっているようだ。これが私にとっての初のジャズ体験といえるが、以来、日本でもジャズが聞けるレストランや飲み屋に通ううち、かつて福岡のジャズバンドにもいたことがあるという秋吉敏子というジャズピアニストを知ることになった。

秋吉敏子の音楽のル−ツは、彼女が生まれ、16歳まで育った満州につきあたる。彼女の代表作「ロング・イエロ−・ロ−ド」は、彼女が小学校の時毎日歩いた、ほこりっぽい黄色い長い道を不思議に思いおこさせてくれる。
1946年、16歳の秋吉敏子は両親とともに満州から日本に引き揚げてきた。 家財道具一切を捨ててきた一家は、両親の故郷である大分県の中津に身を落ち着けた。
秋吉は、6歳の頃からクラシック・ピアノをはじめていたが、大事にしていたピアノをもちかえれなかったことが一番の心残りであった。
秋吉はいとこがが住む別府にときどき遊びにいった。 別府にはアメリカの兵隊達が闊歩し、ダンスホ−ルで「ピアニスト求む」の広告が秋吉の目に入った。
秋吉は、医学を学ばせようと思っていた父親に内緒で働き始めた。 このダンスホ−ルでは、低俗で騒々しい音楽ばかりであったがそれでもピアノが弾けることが何よりも嬉しかった。
ある日、見知らぬ男が彼女のピアノを聞き、彼女の一生の運命を開くことになる。
ジャズレコ−ドの収集をしていたその男は彼女のジャズの素質を見出して、いろいろな曲を彼女に聞かせた。 最初に聞いたのがテデイ・ウイルソンの「スイ−ト・ロ−レン」だった。
なんと美しい演奏だろうと思い、来る日も来る日もレコ−ドを聞いて、憑かれたようにそれをコピ−し始めた。
この時からジャズは彼女を捕らえてしまった。
その後、福岡にでて進駐軍の将校クラブでピアノをひくようになった。 この時、クラブにあったレコ−ドを利用して、デュ−ク・エリントンやハリ−・ジェ−ムスを片っ端から譜面に書き写していった。
そしてのめりこむようにジャズを吸収した秋吉にとって、地方ではもう学ぶべきものはなにもなかった。

1948年 その時19歳だった秋吉は東京にでてジャズのプロフェッショナルをめざすことにした。
東京の街には、アメリカの進駐軍とともにアメリカの文化があふれており、ジャズが米軍放送を通してどんどん流れていた。
彼女の最初の仕事はもっぱら米軍のキャンプまわりであった。 東京にでて3年目、ついに22歳で自分のバンド「コ−ジ−カルテット」を結成した。このバンドにはアルト奏者・渡辺貞夫も加わっていた。
そして運命の日が秋吉に訪れる。
その時、秋吉は西銀座の「テネシ−」というジャズ喫茶の店で仕事をしていた。
階段の暗がりで彼女は、神様といわれたオスカ−・ピ−タ−ソンの姿をみかけた。 どうしよう、と思う間もなく、気を取り直して舞台にあがったが、手足がぶるぶる震えてコ−ヒ−カップさえ握れないほどであったという。
秋吉の演奏を聞いたピ−タ−ソンは、秋吉をすぐにプロデュ−サ−に紹介し、彼によるトリオのレコ−デイングのはこびとなった。
当時日本のジャズピアニストとしてトップだった秋吉は24歳にして、ジャズの本場アメリカにも立派につうじるプロとしてのテクニックをもっていたことになる。
秋吉はこの時のジャズの神様との出会いについて、後日次のように語っている。
「宇宙には目にみえない波のようなものがあり、波のように上下する宇宙の動きを我々はコントロールすることはできない。が、コントロールできるのは我々の側の「努力」の部分だけである。
自己の波と宇宙の波とがぶつかった時が私にとってのタイミングで、そのタイミングを逃さないように努力することはできる。」と。
オスカーピーターソンが来日したのは、1953年11月である。
当時、有楽町にあった日劇でオスカーピーターソンは3日間演奏するのであるが、そのピーターソンが誰かにに案内されて秋吉が演奏していたジャズ喫茶を訪れたのであった。秋吉は、この時のタイミングについてふれ、もしがテネシーが、10月15日にオープンしていなければ、ピーターソンが彼女の演奏を聞く機会は永久にこなかったのかもしれないと。そういう彼女のめぐり合わせであったのだ。
さらにこの時のレコ−デイングがきっかけとなって1956年ボストンのバ−クリ−音楽院への留学することになった。
卒業と同時にサックス奏者と結婚し一児をもうけるが、離婚し秋吉が子供をひきとることになる。
その後、生活が不安定で定期的収入を売る道として、一時コンピュ−タのプログラマの勉強などもしたが、ニュ−ヨ−クの有名ジャズクラブが彼女を採用し何とか定期収入の道が開かれた。

1974年、秋吉が当時最も心酔していたデューク・エリントンが肺炎を起こして亡くなった。デュークへの追悼文の中で、いかに彼が黒人であることに誇りをもっていたか、彼の音楽がいかに黒人の伝統に根付いているかという内容に、秋吉はハット自分をみつけたように感じたという。
彼の音楽、それは彼自身の歴史であると同時にそれはアメリカ黒人の歴史であった。そしてデユークの肉体の終末を待つように彼の音楽はよみがえったことを知った。
この時に秋吉は、日本の文化をジャズに融合させる努力をしなければならない、つまりジャズ・ミュージシャンとして自分が創るものは自分の歴史でなければならない、自分のミュージシャンとしての勝負は自分の死後にあると考えるようになった。
秋吉は宮本武蔵の「五輪書」や世阿弥の「花伝書」をよく読み、両書により自分を無にすることやいかに日頃の訓練が必要かを教えられたという。
その後コンサ−トのために書き下ろしたジャズ・オ−ケストラ、「すみ絵」は日本の雅楽を取り入れた美しい作品で、批評家の絶賛を浴び、彼女の代表作の一つとなった。
また最初のオ−ケストラ・アルバム「孤軍」は能の鼓を取り入れた作品として話題をよび、日本人としてのル−ツを思わせる「ロング・イエロ−・ロ−ド」「おいらんたん」が続いて発表された。
アメリカ黒人のジャズに、秋吉の日本人としての、特に女としての感性が交わって、美しい、デリケ−トな華を生んだ。
一方1977年にでた水俣病をテ−マにした社会性のある「MINAMATA」は、アメリカの「ダウンビ−ト」誌ではベストアルバムに選ばれている。

表現者である以上は、誰かのコピ−であったりエピゴ−ネンであるべきではない、たとえ黒人が生んだジャズの世界であっても、ジャパネ−ズにこだわり続ける秋吉は、ジャズ世界の大御所からみれば疎んぜられる存在ではないかと私は思う。
秋吉は、権力あるものに疎んじられた千利休や世阿弥に言及しつつ、自分を無用の者、遠島の者としながらも、むしろそのことによって自己を肯定することができたのだという。