1920年代から30年代多くの著名人が日本を訪れた。アインシュタイン、ラッセル、リンドバ−グ、ヘレンケラ−等である。しかし日本への思いの強さという点でいえばアインシュタインは際立っていると思う。
それは日本の大正デモクラシ−最盛期にあって、世界の碩学の話を聞こうと日本全国の老若男女がアインシュタインの来日を歓迎したからではない。
後にアインシュタインが「GO」サインを出した原爆製造計画(マンハッタン計画)が、まさか日本をタ−ゲットにすることになろうとはアインシュタインはこの段階では予想だにしていなかったのだ。
アインシュタインにとっては痛恨の「めぐり合わせ」であったといえる。

「相対性理論」で有名なアルベルト・アインシュタインは南ドイツ・ウルム出身の理論物理学者である。 1933年ナチスに追われてアメリカに亡命、1940年に市民権を獲得した。
1922年、世界各地を歴訪途中、雑誌「改造」の招きで日本も訪れた。 神戸入港の郵船・北野丸で、夫人とともに初めて日本の土を踏んだアインンシュタインは、記者団の質問に次のように答えた。
「小泉八雲の著書により初めて日本を知り、其国民性に就き深い興味を有しております。 私は日本に対しては相対性理論を与える外、日本からも何物かを得て帰りたいと思います。」
アインシュタインは1922年11月17日に神戸に上陸してから12月29日に門司を後にするまで約6週間にわたって各地を廻り講演と名所めぐりをした。講演は東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡で行われ14000名がこれを聴いた。その他東京大学で専門家向きに6日間の講義を実施120名が出席した。
講演、歓迎会の多忙な日程の合間をぬって、日光、松島。浅草、熱田、京都、奈良、宮島の名所旧跡観光と能、歌舞伎などの伝統芸能も堪能した。(宮島訪問の際、広島に立ち寄っている)
アインシュタインは「日本見聞録」の中で日本の文化、風景、芸術・芸能を充分楽しみ、瀬戸内海に点在する小島が朝日に輝く風景や雪に覆われた富士山の頂上の輝きと日没の美しさは他に並ぶものがないと書いている。
この本の中で、優雅なリズムと色彩で描かれた日本画は日本人の心を示す美しい証であるといい、出あった芸者さんや旅館のおかみさんや街の人にも優しく接し、子供達の真剣な質問に丁寧に答えている。
欧米の学術視察からの帰途、マルセイユから北野丸に同船した九大医学部三宅速教授や在京中の九大教授・桑木或雄らの尽力で福岡市大博劇場での講演会が実現の運びとなった。 午後1時からはじまった講演は延々5時間に及ぶ。
通訳は石原純博士で、当時のことを「この碩学の風貌を見、新学説の片鱗をうかがおうと、全九州はいうまでもなく、山口、広島からもきた聴衆3000人余は大博劇場を埋めた。」と語っている。
アインシュタインは、講演後福岡市の栄屋旅館に一泊し、九大歓迎会に臨むなどして、滞日1ヶ月余の後、門司出帆の郵船・榛名丸で日本を離れた。このとき福日新聞に次のメッセ−ジを寄せた。
「日本を去るにのぞみ、日本国民に御挨拶する。 殊に私に深い印象を与えるものは、この地球という星の下に、今も尚こんなに優美な芸術的伝統をもち、あの様な簡単さと、心の美しさとを備えておる一つの国民が存在しているという自覚であります。」

1939年7月アインシュタインはニュ−ヨ−ク州の別荘でドイツが原子爆弾の製造を勧めていることを知った。アインシュタインは、ナチスの脅威に対抗するため、原爆製造の必要性をル−ズベルト大統領に求める勧告書にサインした。
ところが1941年ドイツと同盟を結んだ日本軍によるハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発した。
1942年6月ニュ−メキシコ州ロスアラモスの研究所で厳しい監視体制の下、数千人の科学者が動因され、原爆製造研究が始まった。
しかしこの段階で原爆製造計画は完全にアインシュタインから離れ一人歩きをしていた。原爆開発の詳細はアインシュタインには全く知らされていなかったのだ。
後にアインシュタインとともに核廃絶運動に参加する、日本の物理学者・湯川秀樹はまだ少年時代だった。湯川は1934年に「中間子理論」を発表していたが戦後1948年に日本初のノ−ベル賞をもたらす。
1948年に京都大学教授になっていた湯川をアメリカ・プリンストン高等研究所の客員教授に招く。
所長はなんとマンハッタン計画のリ−ダ−であったオッペンハイマ−であった。
オッペンハイマ−は原爆製造の罪の意識からか日本人がアメリカで研究する体制をつくろうとしていたといわれている。
この時、湯川はこの研究所の特別研究員となっていたアインシュタインに招かれたことがある。
湯川夫妻はアインシュタインとの出会いを緊張しながら迎えた。 しかし意外にも、アインシュタインは湯川夫妻と出会うなり、手を握りながら涙を流したという。
そして広島・長崎に落とされた原爆について「誠に申し訳なかった」と語った。

ところでアインシュタインが日本について知ったのは小泉八雲(ラフカディオ・ハ−ン)の書籍によるものであったが、小泉は日露戦争にむかおうとする軍靴の響きに不安をもち、このまま進めば日本が崩壊することを語っていた。アインシュタインもスイス・ドイツ・アメリカと転住し、小泉と同じように国家を超えた意識の中で生きてきた。
しかしアインシュタインにとって原爆が実際に使用されたことと、それがかつて訪れた美しい国に投下されようととは思いもよらぬことだったに違いない。その痛恨の思いがアインシュタインをラッセルや湯川とともに核廃絶運動にむかわせた要因だといってよいだろう。