作詞家の故郷


世の動きを握るキ−パ−ソンがいる。その人の行動や思想なりが多くの人々を揺り動かすのだ。
こういうキーパア−ソンの周辺にシンパ(同調者)が生まれ、誰に命令されたのでもなく情報伝達・武器調達・物資運搬・亡命者保護などの働きをする。
こういう時勢をつかんだ周辺の人々が動きが、大きな時のうねりを生み出していくのだ。
そこで主役の周辺で立ちまわる、前座とか、付き人とか、かばん持ちとか、黒子(くろこ)、などといわれる人々に思いを廻らせた。

前座とは客が主役の登場を待つ間、軽劇などで客の意識や集中力を高め、お腹のよじれ具合など軽くウォ−ミングアップするのが役割だ。料理でいえば前菜ということになる。
付き人とは主役の側にあって、時間調整から、服の着替、食事の調達まで色々と面倒をみる人々である。そのため主役の人柄や趣好なども知り尽くすことになる。
黒子とは、自分を表にださず主役に影のようについて、主役の動きを助ける役割を果たす人々である


こうした人々を思いつくままにあげると、植木等の付き人は小松政雄、力道山の付き人・兼前座・アントニオ猪木、ビ−トルズの日本武道館講演で前座をつとめたのは、なんとあのドリフタ−ズであった。
ドリフタ−ズといえば志村けんは、元付き人からチャンスをつかんだ。
それぞれに渦巻く感情を抱きながら、側近のように主役に仕えた者もいれば、遠巻きに関わった人々もいる。
そして人生においても、「付き人的」・「前座的」・「黒子的」・「カバン持ち」的人生もあるのではないか、と思った。
私は、光源氏に対して惟光朝臣、孫文に対して梅屋庄吉、魯迅に対して鎌田誠一、フェノロサに対して岡倉天心、などを思い浮かべた。もちろん前者が主役である。

「源氏物語」に登場する惟光は、光源氏の恋の水先案内人といってよい人物で、源氏があれほど多くの女性と付き合うことができたのも、この惟光の働きをぬきにして考えるとこはできない。
ある意味、惟光は「付き人の鑑」といってもよい人物なのである。

まず何より、惟光は、光源氏の乳兄弟であるから、源氏の女性の好みすべてを知り尽くしていた。そして源氏の好みの女性がどのような身分でどこに住んでいるかを正確に把握していた。源氏は高性能偵察機を所有していたとみていい。そして愛のピンポイント攻撃にむかうのだ。
ある日、源氏が乳母の家へ立ち寄ったところ、その隣に仮住まいしていた夕顔という女性と出会った。この夕顔と源氏の逢瀬の手引きをしたのも惟光であった。ちなみに源氏物語に登場する女性で人気ナンバ−ワンの女性はこの可憐な夕顔である。
そして夕顔が源氏と会っている最中に、源氏が愛したもう一人の誇り高き名門の女性の生霊(もののけ)に取り付かれて、突然命をおとすことになるが、これはまずいと源氏をその場から立ち去らせ、夕顔の死後の処理一切をおこなったのが、惟光なのである。
死体をもとの夕顔の家へ運べば、女房たちが泣きまどって世間に知れてしまうだろうから、自分の知っている尼の住む山寺へ運びだそうとする。惟光は、とにかく主人の一大事を救うために必死に働いた。
では惟光はすべてかように犠牲的・献身的に源氏のために働いたかというと、源氏の愛が去ったあとの女性と仲良くなったりして、結構甘い汁を吸ったりもしている。それが惟光朝臣の生きる道。

梅屋庄吉は、日活という映画会社を創立した人物であるが、そこに到るまで奇想天外な人生を送っている。
梅屋は1868年に長崎の米屋に生まれた。朝鮮で不作の時に米を売って大もうけするが、次の年には朝鮮が豊作であったという単純な理由で逆に借財をつくってしまった。
日本に居づらくなり南方を歩き回った梅屋は1898年に香港に身を落ち着け写真屋を開いた。 そしてこの地で梅屋は、孫文の清朝打倒の広東における武装蜂起が失敗し、逃れてきた中国人やそれらを支援する華僑との出会う。
彼らは香港に集まり次の機会を狙っていたのだ。これを見た梅屋は血を滾らせ、彼らをかくまいつつ地下組織と繋がっていく。
ただ梅屋にどんな思想的バックボ−ンがあったかは疑問で、どちらかといえば国士気取り、もっといえば単なるお調子者だったのかもしれない。
しかし梅屋の動きは官憲に知られるところとなり、香港を去りシンガポ−ルに渡り、このシンガポ−ルで梅屋は人生を決定づける 映画・興業師との出会う。シンガポ−ルにはフランスの映画会社の支店などもあり、その興業師とともに香港で買い込んでいた映写機を使って上映活動などを行った。
これが意外なる成功をおさめた。何しろ、梅屋はすっかり革命亡命者ということになっており、興中会が後押しして、テントや椅子・設備などを貸し、ついでに宣伝までも行ってくれた。何かの徳は、人に幸運をもたらすのかもしれませんね。
シンガポ−ルこそは梅屋の映画興業の第一歩となったのである。
1904年に日露戦争がおこり、梅屋の心に次第に望郷の念がおこってくる。
先立つ1900年、恵州武装蜂起に失敗し日本に亡命した中国人同志が、革命の拠点を東京に移し1905年に「中国革命同盟会」を結成したことを伝え聞いたのである。
1906年に梅屋は日本の土を踏むことになるが、この頃彼の名前は中国革命同盟会にも良く知られる伝説上の人物になっていたのである。さらに彼のトランクには、日本人がまだ見たこともない色彩フィルム大作がつまれていた。
梅屋はさっそく東京・新富座をはじめ映画興行を行い人々の注目を集め、映画人としての成功をある程度おさめた。さらに梅屋は、新宿区大久保の地に撮影所を兼ねた自宅をたて、数名の中国人亡命者をかくまい、その中には蒋介石もいた。
そういえば梅屋庄吉が創立した日活の映画に「嵐を呼ぶ男」というタイトルの映画があったが、このタイトルは梅屋庄吉の人生にもにある程度あてはまるかもしれない。
孫文や蒋介石といったキ−パ−ソンの周辺にあって、彼のような嵐をよぶ「前座的」人物が居るか居ないかによって、時勢のうねりも嵐のように大きくなったり、また凪いだりするのではないだろうか。

日本に留学し東北仙台の地で学ぶ孤独な魯迅にとって救いとなったのが、東北大学の教授であった藤野先生であった。藤野先生は、魯迅のノートを細かに添削して魯迅の勉学の進路について絶えずアドバイスし励してくれた。
魯迅は、藤野先生の恩を一生忘れずに、藤野先生の写真をいつも座右においていた。
ところで、もうひとり、魯迅の終生の恩人となった鎌田誠一というを人物がいた。
孫文死後その後継者であった蒋介石は、孫文の遺志を裏切り共産党の攻撃に転じた。魯迅は左翼作家連盟に所属し共産党に近かったため身の危険がせまっていた。そしてその魯迅がよく利用していたのが上海にあった日本人経営の内山書店である。
その時、たまたま内山書店で働いていた鎌田誠一氏は店主の内山完三の指示もあり身の危険を犯しつつ魯迅を匿ったのである。
 私はこの鎌田誠一氏について調べるために上海にあった「内山書店」の名前をインターネットで検索したところ、東京神田の古本屋街の中に同名の「内山書店」という店があることがわかった。 しかも神田にあるその書店のホームページには「中国書籍専門」と書いてあった。
ひょっとしたら上海の「内山書店」と関係があるかもしれないと思い、さっそく「人物年鑑」で内山書店の店主・「内山完三」を調べたところ、内山氏が上海で内山書店を開いており、戦後、帰国して東京神田に同名の店を開いたことがわかった。
 この書店に間違いないと思い、さっそく神田の内山書店に鎌田誠一氏の資料かないかと手紙で問いあわせたところ、驚いたことに、「上海時代の内山書店と鎌田誠一」という書籍を含む多くの資料がつめこまれたダンボール箱が自宅に送ってきた。
 その資料を見て、魯迅は鎌田氏を終生の恩人と感じており、鎌田氏の墓碑には魯迅の書が彫られている、ということを知った。
魯迅を匿った鎌田氏の存在は、藤野先生ほどには知られてはおらず、いわば魯迅の中国における啓蒙活動の中で、ある種「黒子(くろこ)」的役割を果たしたのではないか、と思うのである。

明治時代、フェノロサは来日後まもなく、仏像や浮世絵などの日本美術の美しさに心を奪われ、古美術品の収集や研究を始めると共に全国の古寺を旅した。
フェノロサが日本で大きな役割を果たすうえで重要なのが、外人と思うほど英語が達者な岡倉天心であった。岡倉は、通訳としてフェノロサの古美術探訪に随行した。この時の岡倉、英語の達人とはいえまで学生の身分であり、ある種「カバンもち」ほどの役割を同時に果たした。
フェノロサと岡倉との間に真の友情が生まれたとも思われないが、二人は美術を糸口として時と場所を共有することが非常に多かったということはいえる。
フェノロサは日本伝統美術の研究のために、よく岡倉にいろいろの書物を調べるように頼んだ。
この経験が岡倉の日本の伝統美術に関する基礎学習となり、ひいては伝統美に対する開眼のきっかけとなったのである。
また調査資料をフェノロサのために英文で作成することは後年、岡倉が英語で日本文化論を世界にむけ執筆をする上での貴重な訓練になったといえる。
このように岡倉はフェノロサと出会った当初、フェノロサの「カバン持ち」的役割をはたすが、ことアメリカの地に関する限り、岡倉はアメリカにおける主役の座をフェノロサより奪い取った感さえある。
フェノロサが集めてアメリカに送った日本美術がボストン美術館の日本コレクションの土台となったが、ボストン美術館には、岡倉の名前は残っていてもフェノロサの名前を冠したものはボストンの地にほとんど残っていない。むしろフェノロサこそ岡倉の「黒子」なのである。
日本国内で排斥された感のある岡倉ではあったが、ボストンに住む日本美術愛好家と交流を深めていた。かつての「カバン持ち」であった男が、世渡りの才知と機敏性をもって、アメリカでいつのまにや、日本美術コレクションの主役となっていた。