1970年代半ばの私の大学時代は、学生運動が終息の方向に向かおうとしていたころ、学生セクト間の狂い咲きのような内ゲバによる流血や、人違いで死亡した学生の悲惨なニュ−スなども伝えられていた。
高校の頃読んだ庄司薫の小説は、日常の若者言葉で書かれてあって当時とても新鮮さを覚えた。
たとえ、極貧生活が待ち受けていようと東京の大学に行くんだと決意したのも、庄司薫氏の作品の影響があったと思う。
また、庄司薫氏が作品の中で、ピアニストの中村紘子さんに憧れている(ほとんどスキだ)とコクッたため、彼女の招待をうけついには結婚されたこと、それがとても羨ましかったり、庄司作品がサリンジャ−の「ライ麦畑で捕まえて」の翻訳文体に近いなどの批判を受けたことを知りガッカリしたなど、要するに当時かなり思い入れがあったのだ。
しかし庄司氏が、東京大学法学部に在学の頃、政治学者・丸山真男のゼミに所属していたということを知ったのはわりと最近のことである。(というか当時、丸山真男という学者を知らなかった)
庄司氏の芥川賞受賞作である「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1966年)には、丸山真男をモデルとした「憧れの教授」が登場する。
スト−リ−では主人公のカオルが兄とともに銀座を歩いていた時に、その教授とばったりと出会い、オチャすることになった場面がある。

たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ち止まったり、でも結局は何か大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える、限りない強さみたいなものをめざしていくものじゃないかといったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「ほんとうにこうやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだけれど)ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんていうかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。

丸山ゼミ出身の人材は庄司薫ばかりではなく、とてつもない広がりがあり、丸山真男の政治思想に感化された人脈の豊かさを思わせられるのであるが、大正デモクラシ−の時代に、学生の圧倒的な人気を博したのが吉野作造であった。
当時の吉野教授は丸山教授以上に当時の学生にとっては「憧れの教授」であり、その門下の人脈は多彩である。そしてある意味吉野教授の学生ファンクラブこそが、今日の学生運動の淵源になっているのだ
吉野作造といえばなんといっても「民本主義」、日本の天皇制と民主主義を調和させた「民本主義」は、学生達に光明を与えていたといってよい。なぜなら天皇制下で人民主権のデモクラシ−を唱えることは危険思想と見なされたからである。
当時、論壇の登竜門であった「中央公論」は、吉野の論文は常に優先的な扱いをもって掲載された。その最も長大な論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの道を論ず」は、「民本主義」の立場を明らかにした、画期的な論文であった。
吉野教授はデモクラシ−を、権力の由来たる主権の在り処からとらえるのではなく、デモクラシ−が目指す政治のありかたというような目的論的にとらえたのである。
歴史的にみて天皇主権の政治も民衆の利福のためになされてきたのだから、民衆の意向に沿ってきたものであり、これからもそうあるべきである。その意味では、現実政治において議会主義的要素が取り入れることは、けして天皇主権の国体とは矛盾しない、従来の「民主主義」という訳語は、権力所在論としての人民主権であるとの誤解をまねくので「民本主義」とする、という内容であった
天皇制と民主主義を巧みなレトリックで調和させたような感じもするが、それでも吉野教授は普通選挙の実現や下院中心の議会主義などそれまで社会主義者でなければしないような大胆な主張を行い「大正デモクラシ−の旗手」となった。

ところで、吉野作造の名前をいやが上にも高らしめたのは、右翼との公開討論であった。
そしてこの公開討論のきっかけとなったのが、丸山真男の父・丸山幹治も論説陣に属していた大阪朝日新聞の記事であった
実は、米騒動の弾圧を行った寺内内閣を最も先鋭的に批判していたのが大阪毎日新聞であるが、記事の中に中国の古典を引用した言葉に、(無理に解釈すれば)皇室の尊厳を損なうような表現があったとして、右翼からの攻撃をうけるようになった。
そして大阪朝日新聞の社長が実際に右翼の襲撃をうけ、すっかり弱腰になり結果的には社内の政府批判分子を排除することになった。その時、丸山幹治も抗議の退社をした。
大阪朝日は右翼の襲撃以降、すっかり論調をかえ、つまり変節していくわけだが、東大教授の吉野作造は、朝日社長を襲撃した右翼団体・浪人会を「中央公論」で徹底的に批判したのである。
怒った右翼が吉野宅を訪れ抗議したところ、吉野は立会演説会を開いてどちらが正しいか、聴衆に判断してもらおう、ということになった。
そして1918年11月27日吉野対右翼団体・浪人会の対決が神田神保町の会場で行われた。
学生達は、大阪朝日新聞が浪人会一派の襲撃に縮みあがっている中、吉野先生は一人、四面楚歌の中で敢然と戦っていると宣伝し、浪人会を葬り、吉野先生を守れ!と叫んだ。
この演説会には、東大にも早稲田、法政、明治、日大などの学生や、吉野と同郷(仙台)であった友愛会(後の総同盟)を組織した鈴木文治もいて、鈴木の知り合いの労働運動家も多数参加した。
また吉野が理事長だった東大YMCAは、吉野教授の身辺を守ろうと、柔道四、五段の力自慢も、講壇の真下の席を占拠したのである。(なんか株主総会を思い浮かべますが)。討論会は、吉野1人、浪人会側から4人が参加して行われたが、会場においては吉野の支持者が圧倒的で、右翼団体は完全にアウェイの状態だった
この討論会で吉野は、暴力をもって思想に当たることは、それがいかなる主張であろうと絶対に排斥せねばならない、立憲治下の我が国で、国民の制裁をなす権限は天皇陛下にあり、この陛下の赤子に対して個人が勝手に制裁を加えることが是認さられるならば、かえって乱臣賊子ではないか、国体を破壊するのは、浪人会一派ではないのかと、またもや巧みなレトリックで主張した。
あせり出した浪人会の一人が、聴衆の一人に鉄拳を加えると吉野は、数万語の演説よりも今の一事が浪人会の本体を示しているとたたみかけ、これによっていずれの側が正しいいかが明らかにされたときめつけた。
聴衆からは万来の拍手がわきおこり、会場からでた吉野は、たちまち群集の手によって、絶叫と歓声うずまくなか、胴上げ された。

この立会い演説会はある意味、歴史的なもので、吉野を応援するために学生達が各学園の学生を動員したこと、演説会場では、学生の力で右翼を圧倒し、大勝利をおさめたことが、学生達を興奮せしめた
そしてさらにこうした活動を継続し、一層、日本のデモクラシ−を進展させようとして、学園に様々な団体がうまれたのである。
その代表的な存在が東京大学の新人会で、新人会こそはすべての学生運動の淵源といってよい。
実はこの新人会結成時のリ−ダ−が赤松克彦で、吉野作造の娘婿となる人物である。
ただ、新人会は、当初の民本主義の立場からしだいに左傾化していく。
吉野作造自身、1924年に東大教授を辞した後、無産政党との関係を強め、無産政党の右派である社会民衆党の結成に関わっていく。
新人会の社会主義化は、何も戦後の学園闘争と直接的連続性はないにせよ、なんか東大安田講堂(1969年)の攻防を思い浮かべる。
そしてその年中止になった東大入試をうける予定だったのが「赤頭巾ちゃん」の庄司薫である。