海老名弾正と熊本バンド


「さとうきび畑」の歌は、戦争のことを直接にはふれない反戦歌として知られてている。激しい言葉も一切ない。抑制がきいたリズムが波打つように少しずつ人々の胸にせまってくる。
土の下に埋められた戦没者の声が、「ざわわ ざわわ」のリフレインとなっていつまでも耳に残る。
当然に、この歌をつくった人のことや経緯のことが知りたくなった。
この歌をつくったのは東京出身の作曲家・寺島尚彦氏である。東京藝術大卒業後も音楽活動を継続していたが、1967年初めて訪れた沖縄に心を揺さぶられた。
寺島尚彦は、初めて訪れた沖縄で、抜けるような青い空の下、背丈より高いサトウキビに埋もれながら、うねるように続くサトウキビ畑を歩いている時、次のような地元説明者の言葉を聞いた。
「あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています。」
その時のことを寺島尚彦氏は述懐する。

「一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波打つサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。」


帰京後、寺島氏はこの時の衝撃を何とか作品にしようと試行錯誤の末、生まれたのが「さとうきび畑」の歌で、風がサトウキビ畑を吹き抜ける音「ざわわ」が66回もくり返される詞となった。
深く静かに、怒りと苦しみ、悲しみを伝えるには、それだけの時間の長さと空間的広がりが必要だった。
あの日、寺島氏が立ちつくしたたサトウキビ畑は「平和祈念公園」に姿を変え、24万人の戦没者の名を刻んだ黒い御影石が波のようにうねっている。
この歌が作られた経緯を知って、私は宮沢賢治のことを思い出した。宮沢賢治の童話は、「風」が大きな役割を果たしているからである。
一陣の風によって物語りが始まり、風の音によって物語が終結する。
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴った。
そして宮沢賢治の童話や詞の中にも、時代背景からしてきっと反戦の意図が秘められているものがあるのではないか、と思った。
そこで、まずは世に最も知られている宮沢賢治の手記に残された「雨にも負けず」について調べてみた。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治は現在多くの人々により愛読される詩人であり童話作家であるが、生前は全く売れず知られてもいなかった。1924年にほぼ自費出版の形で「注文の多い料理店」という童話集と「春と修羅」という詩集を世に出しているが、それもほとんど注目されることはなかった。(彼の死後、彼の作品を高く評価したのが詩人の草野心平である。)
そうした彼の姿が「雨にも負けず」の詩と重なり合い、私は「デクノボ−」とは彼自身の理想像であるよりは、世に必ずしも受け入れられない自分に対する鼓舞激励の詩のようなものだと思いこんでいた。
ところが最近、この「雨にも負けず」には、一人のモデルがいたということを知った。
斎藤宗次郎(1877〜1968)は賢治と同じ花巻出身で、無教会主義のキリスト教者である内村鑑三に強い影響を受け入信した。日露戦争が始まろうとしていた時に、勤務している小学校で生徒に「徴兵拒否」「徴税拒否」を説いたために教職を追われ新聞配達の仕事でをしたところ、花巻農学校に勤務していた賢治と知り合った。
そして、宮沢と斎藤は頻繁に会い詩や童話の話を互いに交わすようになる。
斎藤宗次郎は、朝3時に起き、雨の日も風の日も、新聞紙の入った重い風呂敷を背負い新聞を届けた。一日40キロ祈りをささげながらの配達であったという。
そして帰りには病人を見舞い、道ばたで遊ぶ子供たちに菓子を分け、人々の悩みや訴えを聞いたという。当時キリスト教信者は「ヤソ」と罵倒され彼の子どももひどい仕打ちを受けたが、1926年、師の内村鑑三の下で働くため上京する際には、彼を慕う多くの人々が見送ったという。
上京後、特高ににらまれ弟子達の多くが去る中、斎藤は最後まで非戦論者であった内村の伝道を手伝い、その最期をみとったという。
「斎藤宗次郎は、内村の援助をしながら反戦の立場を生きたのであり、その斎藤をモデルとした「雨にも負けず」は、「さとうきび畑の歌」と同じように直接戦争にふれずとも、反戦の心を宿した詩なのである。
もっとも、「雨にも負けず」が戦中の配給体制を推進する文部省に利用されることになったのは、誠に皮肉なことではあるが。


ところで宮沢賢治の童話は先述の通り「風」がおおきな要素となっている。代表作のひとつ「風の又三郎」はタイトルそのものに「風」を含んでいる。
私が読んで「風」が印象的だった作品に、「注文の多い料理店」である。2人の男がある西洋料理店にはいって注文をとろうとするが、奇妙なことにその店は客に対する注文がやたらと多いのである。扉に書いてある指示にしたがって、はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、それらをみんな金庫のなかに入れて錠をかけたりした。
さらに、「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか」「早くあなたの頭に瓶(びん)の中の香水をよく振(ふ)りかけてください」「どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさん よくもみ込んでください。」などの指示が続いて表れるのである。
不思議に思っていると、2人は恐ろしいことに気づく。 この店は、西洋料理を来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして食べてやるという店である、ということである。
二人は恐ろしさで泣いていたところ、犬のような声が聞こえてきて2人が我に返ると、料理店はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立ちつくしていた、という話である。
食うつもりが、食われる準備をしていたというのは、当時の列強に仲間入りしようとしてアジアの近隣諸国を併呑しようとし、逆に身を滅ぼそうとしている当時の日本の情勢と未来の姿を暗示していないか。

また「よだかの星」では、醜いよだかが自分の名前と似ているのを嫌った鷹に改名をせまられる。鷹は、もしあさっての朝までにそうしなかったらつかみ殺すぞ、とよだかを脅す。
「よだか」は神様からもらった名前なのに、「市蔵」と名前を変えろとはあんまりだ。よだかは口を大きくひらいて、羽をまっすぐに張ってまるで矢のように空を横切った。その姿だけは確かに鷹ににているようにも見える。小さな羽虫が幾匹もその咽喉にはいった。
また一疋の甲虫が、夜だかの咽喉にはいり、そしてよだかの咽喉をひっかいた。よだかはそれを無理にのみこんでしまったが、その時、急に胸が痛み、大声をあげて泣き出した。泣きながらぐるぐるぐるぐると空をめぐった。
ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。 ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓え死のう。
美しい鷹になろうと天空に飛翔したよだかがいつのまにか燃えつき、天空で燃える星になったという話である。
つまり、よだかは「殺し、殺される」関係を逃れて、それを超えた世界に生きようとしたということである。
西欧列強に仲間いりしようとして、つまり鷹になろうとした「よだか日本」がその過程で弱小なものを収奪した姿を、批判しているのではないだろうか。

私は宮沢氏の思想や信仰についてほとんどしらないが、反戦の魂を宿した作品が多くあるのではないかと、従来より思っていた。
「サトウキビ畑の歌」が戦争に直接はふれずに人の心にせまったように、宮沢童話にも生命への畏敬に加え、人の心に深く沈潜する罪業と償いへの祈念ごときものを化育する何かがあるのだと思う。
それが結果として、(反戦というよりも)「非戦」の心を宿した作品を自然に生みだしたのではないか、と思うのである。