作詞家の故郷



 皇居とお堀の静かなたたずまいから数分歩けば有楽町がある。
有楽町は織田信長の弟・小田有楽斎という茶人の名前からつけられた町名らしいが、1950年代にはジャズやワルツが流れる街、恋人の集う街、また日劇カ−二バルなど青春のエネルギ−溢れた、楽しさ溢れる町として知られていった。
 有楽町から新橋のガ−ド下の居酒屋・立ち飲み屋あたりを歩いてみると日本人が元気だった昭和を思い出す。植木等の「無責任男」の撮影が行われた大手町あたりのサラリ−マンもこのあたりで一杯やったのであろう。
ただしこの界隈で一杯やるには、サラリ−マンでなければ少々「アウェイ」感を覚悟しなければならない。或る芸人がサラコンつまりサラリ−マンコンプレックスのために、夜毎「サラリ−マン」のコスプレ姿でやってきてこの界隈で飲んでいたという話を思い出した。
椎名誠のの自伝小説「新橋鳥口青春編」には得体のしれない人々が働く出版社が登場する。出版社というところなかなか枠におさまらない人が多く、特に中小の出版社は、まるで映画「アダムスファミリ−」のような雰囲気なのだ。
新橋あたりの飲み屋で呑んであきたらずまた自社のビルに忍び込み古ぼけたスト−ブで肴を炙って酒を飲み翌朝出社時間までを過ごし、各人ばれないように時間をずらしてに何食わぬ顔でオフィスに現れるといった社員達の姿が描かれている。皆がエネルギッシュで少しハズレているが楽しい。
JR有楽町駅でおり線路をはさんで立つ読売本社と東映本社の建物をながめながら、ガ−ド下あたりの横丁で一杯やっていたにちがいないワケアリの人々のことに思いを廻らせた。
そういうわけで、今回お題は「有楽町わけあり横丁」といたします。

読売新聞社長の正力松太郎と戦後最大の労働争議・読売争議の代表の鈴木東民の二人の個性の横溢は、戦中戦後の混乱期に一つのエポックを築いたように思える。
戦争中より読売新聞社長の正力松太郎は、読売巨人軍の創設をはじめ、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばし、現在、読売は 世界で最も発行部数の多い会社として知られている。
しかし後発の読売が朝日・毎日と肩を並べるに至った最大の理由は、正力松太郎による大拡張にともなう有能な人材の補填であったといえる。
ところで正力松太郎は、新聞人としては異例の経歴をもっている。
1911年に東京帝大を卒業した正力は、警視庁にはいるり米騒動・東京市電ストの鎮圧、第一次共産党検挙などで辣腕を発揮して将来は総監の椅子も夢ではなかった。
ところが1923年の虎ノ門事件が正力の運命を大きく変えた。難波大助による摂政宮(後の昭和天皇)の狙撃事件に現場で遭遇し、責任をとりに懲戒免職になっているのである。 恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰を志すことはなかった。
その後、正力は有力財界人や東京市長の後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社の経営権を買収し社長に就任した。そしてワケアリ社長・正力の下、社内の要所要所にはかつて警視庁時代の部下を配したのである。
こういうと読売新聞がすっかり御用新聞になるやと思いきや、正力によって採用された人々は、昭和初期の左翼運動をかいくぐった者が非常に多かったのである。
つまり正力は、警視庁時代にマークしていた人物が能力とやる気さえあるならば社員として積極的に採用したのである。そこに治安のプロ正力の真骨頂があったのかもしれない。
面白いのは、かつての「治安のプロ」であるワケアリ社長とかつての左翼系活動家その他ワケアリのオタズネモノが、処を変えてつまり「言論の府」で再びめぐりあうという図式である。
1920年代、大正末期にはわずか4万部の売り上げがなかった読売新聞社が、太平洋戦争の始まる1941年には160万部までに、つまり約40倍まで売り上げを伸ばしている。
読売新聞の成長は戦争によって助成された面も多く、戦争を通じて印刷工からトップ近くまで、彼らの反体制的エネルギーがしっかりと縛りつけられていたという面もある。
しかし多様な人材を登用し使いこなしたという点で正力という人物はよほどの傑物(ジャイアント)であったといってよいのではないか。
例えば正力は、日本と当時同盟国であったドイツで反ナチ宣伝をおこなった電通の研究員・鈴木東民を40歳で中途採用した。それも外報部次長兼論説委員として入社させており、この鈴木の入社にはドイツ大使のオット−からクレ−ムがついたが、正力は鈴木東民を庇いオット−の要望をはねつけたのである。
 戦争終結後、正力松太郎は新聞人としての戦争協力を問われGHQによりA級戦犯と指定された。一方、もともと左翼系の多かった社員のエネルギーが戦後最大の読売争議として大噴出した。
その労働争議のリ−ダ−となったのがこの鈴木東民である。
鈴木東民は県議を務めていた裕福な家庭に育った。東北中学を経て、旧制二高に学んだが、幾年かの浪人、留年を経て、25歳で東京大学にはいっている。1910年の「大逆事件」の大きな衝撃が彼の人生を大きく決定づけた。
 東大卒業後は朝日新聞の記者、1926年日本電報通信(電通)の研究員としてドイツにわたり、そこでナチス・ヒトラーの「国会議事堂放火事件」の陰謀を指弾したことで、ドイツ人夫人とともに追放処分になっている。鈴木東民は、終戦直後の読売争議の委員長として一躍その名をしらしめた。
 その後、共産党入党・脱党を経て、1955年に革新無所属候補として釜石市長で初当選し3期連続当選を果たした。鈴木は、釜石でも反骨精神を発揮し、企業公害を追求し4期目には組合&企業推薦候補に敗れている。鉄の町で、反骨を絵に描いたような「東民さん」の人気はいまだに根強い。

有楽町には、読売新聞に似て異色の人々が流れ込んで設立された会社がある。東映株式会社である。
戦争により戦時体制が強化されると言論ばかりではなく映画の撮影所は整理統合され、国策映画以外の映画づくりは窒息していった。カツドウ屋の多くが失業し、映画への夢をあきらめきれない映画人たちは満州へ渡った。また多くの左翼運動家も少なからずここに流れてきていたのである。
満映にはもともと何らかの事情で日本にいられなくなった人々が多くいた。つまりワケアリの人々の寄せ集めといってもよいが、ワケアリといえば、満映理事の甘粕正彦も大杉夫妻を殺害し軍法会議にかけられた後服役し日本にいられなくなった人物である。
だが日本の敗戦で全てが四散した。 ソ連軍が新京市内に突入し甘粕は自害したが、それをみとったのが、側近の赤川幸一であった。作家・赤川次郎の父にあたる人物である。
 その後、旧満映日本人従業員は甘粕の用意した列車で帰国しそして東映を作ったのである。
東映の社員に満州映画協会の出身者が多いのはそのためで、甘粕正彦という人物は、ある部分東映の恩人といってよいかもしれない。
満州映画協会で甘粕正彦理事長の片腕となっていたマキノ省三の息子マキノ満男は、根岸寛一らとともに、満州映画界の残党を大胆に吸収し、東映の前身・東京映画配給株式会社を作り、映画界に新風を送り込んだ。新会社は東京と京都 の二つの撮影所を保有し、GHQによる「時代劇禁止令」などとも戦いながら成長していく。
東映映画のオープニングといえば3つの岩に荒波が打ち付け、三角形のロゴマークが飛びだすシーンが有名であるが、 3つの岩は、東映の前身である東京映画配給、大泉映画、東横映画の3社の統合と結束をイメージしている。
松竹・東宝と比べると後発であった東映が両者に肩を並べるに至ったきっかけとなったのが、今井正監督の「ひめゆりの塔」である。東横映画時代に「きけわだつみの声」をプロデュ−スして成功したマキノ満男が、父親ゆずりのするどいカンで、この反戦的主題に価値を認め、東宝のレッド・パ−ジ組をむかえて製作をまかせたのである。そして「ひめゆりの塔」は戦後最高の興行成績を収めることになった。
ところで1950年代なかば、戦争をまったく知らない世代が小学校に入ろうとしていた。テレビ放送がはじまったものの まだ一般には普及はしていなかった。
東映は、新しい世代をタ−ゲットにした児童娯楽映画をつくり、一本建て興行の常識を破り、二本立ての量産体制に切り替えた。特に「笛吹童子」や「里見八犬伝」の成功は先発の松竹・東宝をあわてさせた。
このように東映の児童向け娯楽映画は日本映画の体質そのもを変えると同時に、この若い文化をつくりだす火付け役ともなった。
やがて東映の京都撮影所には新しいステ−ジが建ち、敷地は拡大され全所員が走りながら仕事をしているというキャッチ・フレ−ズが生まれた。
1963年から鶴田浩二、高倉健、藤純子(寺島しのぶの母)らを擁して仁侠物ブームを作り1973年以降は、菅原文太の実録物「仁義なき戦い」シリーズ、「トラック野郎」シリーズが人気を呼んだ。

わたし的には東京都板橋区成増の崩落寸前の映画館にて「トラック野郎・男一匹桃次郎」(1977年)を見て、夏目雅子という女優をはじめて知りました。
5年後、わが映画館「成増東映」は人々にまったく惜しまれずにこの世から消滅し、さらに5年後、夏目雅子が多くの人々に惜しまれながら亡くなりました。