柳川とテニス


繋がらない点が結びつく時事件の全貌が明かされる、というのは「点と線」以来の推理小説の常道である。しかし逆に繋がるはずの接点がみあたらない、という形で問題を喚起されることもあり得る。
そのことを教えてくれたのが、2007年の秋、柳川の立花藩別邸の松涛園で出あった安達敏昭氏であった。
安達氏は、竹久夢二を中心とした大正ロマンについての書物を自費出版されており、私にその本の紹介をして下さる過程で、竹久夢二と北原白秋に関わるある話をして下さった。

竹久と北原には驚くほど共通項がある。竹久は1884年に岡山で生まれ、北原は翌年福岡県柳川に生まれている。ともに造り酒屋に生まれ、家出して上京し早稲田に学び、ともに中退している。また恋愛においても北原は姦通罪により告訴され未決監に拘置された体験があり、竹久は刃物を突きつけられるがごときシリアスな体験をしている。北原の実家は1901年の大火によって酒倉が全焼し破産し、竹久の廻船問屋も破産という点でも共通している。
そして何よりも二人は大正ロマンを飾るトップランナ−であったのだ。
安達氏の抱いた疑問は、畑こそ異なるが芸術的な感性がきわめて似通った二人には、互いの感性を磨き高めあう共通の場があってもよさそうなのに、二人の接点が全く見られないということであった。しかもある雑誌の対談で竹久は、好きな詩は何かと聞かれ、北原白秋と答えているのである。芸術上の兄弟にも思える2人、当然会えばよいではないか、と思う。
竹久自らも「詩人になりたかった」といい、北原はある意味憧れの存在で、竹久の作品は絵で描いた詩であったともいえるのである。
また竹久が異国の文化に興味をもち九州旅行を敢行したのも、北原白秋が長崎を訪れ、そのキリスト教文化にふれ、自らの処女詩集を「邪宗門」となずけたのも、互いに通じ合うものをもっているように思える。
二人にはそれほどに共通点があるのだがどこまでも交わらない。私も「竹久夢二正伝」と題された書物を借りて読んでみて、なるほどそこに北原白秋の名前は一切でていなかった。
 安達氏は、ひょっとしたら二人が交わらない理由もっといえば避けあわなければならない事情がそこにあるのではないかという気持ちを抱きながら、竹久夢二の九州行きを調査するうちにアット驚く新聞記事に出会う。
大正8年8月19日付けの「東京日々新聞」に「竹久夢二等、訴えられる北原白秋等より」の見出しで、「作詞家北原白秋と作曲家中山晋平らが、画家竹久夢二と岸他丑を著作権侵害で訴えた。」という記事を見つけたのである。
竹久の元妻たまきの兄・岸他丑が絵葉書店を営んでおり、絵葉書を作成した際、その中に北原が作詞、中山が作曲したものを無断で採録印刷し発表したというのである。北原はそれが著作権侵害にあたるとして竹久らを提訴したのであった。
安達氏は、そこに二つの点が交わらない事情を見出す一方で、この問題をめぐり二人の仲をとりもち和解させた野口雨情という「第三の男」の存在も知ることになった。(これが接点といえば接点といえる。)

私は、安達氏の話を聞くうちにもうひとつ啓発をうけた話があった。それは、筑紫の女王とよばれた柳原白蓮と竹久夢二の接点である。実は、安達氏の話を聞く以前から、私の中で白蓮のイメージとどこか竹久夢二の描くか細い婦人像が重なってはいたのであるが、竹久は、柳原白蓮の歌集の装丁を依頼され、九州旅行の際に福岡で白蓮と実際に会いにいっているのである。
竹久夢二は大正ロマンの時代にあって一種のブ−ムを起こし、女性遍歴も華々しかった。こういう女性のイメ−ジが重なって竹久夢二の世界が構築されていったのだが、ひょっとしたら白蓮のか細いイメ−ジも幾分重ねられているのかもしれないとも思った。
竹久の生涯を調べると意外と福岡との接点が多い。まずは竹久の生まれ故郷である岡山県邑久郡であるが一遍上人・福岡の市で知られ、黒田氏が岡山から博多に封土をいただいた際に、この岡山の地名から「福岡」の地名をとっている。
竹久は実家の廻船問屋が破産した後、神戸での一年に充たない中学生活を送り、北九州の枝光へと移り八幡製鉄所の下働きをした経験がある。その後上京し住まいを転々としながら次第に絵描きとしての名を上げていったのである。
北九州市枝光の竹久がかつて住んでいたあたりには、竹久夢二を記念する石碑がたっている。

最近、竹久夢二の違った側面に光が当てられるようになってきている。
竹久の作品は、大正デモクラシ−から国家主義へと傾いて行く時代には似つかわしくない側面もあった。またその華麗なる女性遍歴のせいか「惰弱」とか「軟弱」と揶揄され、それがすっかり竹久の世間的イメ−ジとして定着してしまったようだ。そして竹久は、政治活動とは無縁の世界に生きたようにも思われるが、実は竹久の芸術的バッックボ−ンはキリスト教と理想的社会主義であった。
竹久は、上京し早稲田実業で学ぶが、生活のため画を提供した絵葉書店が彼の人生を大きく左右した。そこでは最初の妻・たまきとも知り合っている。実は、夢二式美人画の原点は色白、おめめぱっちりの「たまき」であった。
幸徳秋水らの「平民新聞」挿絵画家から出発し、油絵を志した。美人画絵葉書が売れて大正ロマンを代表する芸術家となっている。
映画作家故・藤林伸治が竹久を題材にドキュメンタリー映画を作ろうとしたところ、83歳の老人が竹久のあるエピソ−ドを語った。竹久がユダヤ人救出組織と関わっていたというのである。
実は第二次世界大戦中に500人あまりの日本人がヒットラー政権下ドイツ・ベルリンに住んでいたのであるが、その中には反ナチ運動に関わってユダヤ人救出に手を貸す一握りの人々がいた。
竹久は、人間関係がもつれたり絵の題材に行き詰まったりするとしばし東京を離れて旅にでることが多かった。その老人は、べルリンのプロテスタント教会の日本人牧師で、竹久が10カ月ほどヨーロッパに滞在した時期に出合ったという。
受け入れられる故郷を持たないさすらいの民・ユダヤ人に、故郷を失った竹久がなんらかの近さを感をじたのかもしれない。ただ日独同盟を背景にして、テロの危険もあるさ中、ヨーロッパ各地のユダヤ人を救う組織との連絡係という仕事は、なかなか気骨の要る仕事ではあった。
その老人は、こうした誰も語らなかった竹久のエピソ−ドを語ったのである。

私は、竹久を「もう一人の杉原千畝」とよぶわけにはいかないだろう、とこの話を結ぼうとしたのであるが、「待てよ」と思いなおした。
だいたい竹久がベルリンに行ったところで、飛び込み式でユダヤ人救出の仕事ができるわけではない、そこには必ずや何らかのコネがあったに違いない。そして日本での竹久とユダヤとの「もう一つの接点」を思い浮かべた。
妹尾河童の「少年H」の中に、明治以来神戸に住んで活躍するユダヤ人が少なからずいたことが書いてある。竹久の実家は、岡山の廻船問屋(酒造)であったことを思い出していただきたい。そこにユダヤ人との繋がりは生まれなかったのか、竹久が頻繁にヨ−ロッパを訪問した理由は他にあったのではないか、本の装丁や挿絵の仕事がユダヤ人との関わりを持つ契機とはならなかったのか、等々である。
こうなるともう松尾芭蕉の「奥の細道」行きの推理にも近くなってくる。
竹久は生涯五十年の間ほとんど旅の連続であった。いずれにせよ、これほどデラシネ(根無し草)という言葉が似合う男も他にはいない。
女性にもデラシネ〜、とはいいません。それは、あくまでも竹久の「夢路」であったにすぎません。