大事件の日には不思議と大雪が降る
一番、映像として知られているのが四十七士による吉良邸討ち入りだろう。
次に有名なのは幕末、水戸藩浪士の井伊直弼襲撃の桜田門外の変、そして昭和初期、皇道派青年将校による2・26事件であろう。
なぜこんな時に雪は深々と降るのか、人間の熱した情念を冷ますためか、あの深い雪の降った日として後世に忘れがたく刻印するためか、人間の罪科を雪のごとく真白く清めるためなのか、などとついつい考えさせられる。
あまり聞かないことなのだが、桜田門外の変をおこした水戸の浪士達と2・26事件をおこした皇道派青年将校達は、どこか似通ったところがある、と思う。
第一は尊王派と開国派、統制派と皇道派という相対立する集団の中での片方の派を形成し、どちらかといえば、劣勢にあったこと、第二に、その劣勢を挽回すべく一気呵成の行動にでたこと、第三に彼らの行動の原点に天皇への真情があったこと、第四に、彼らの意図は天皇に充分に届かないまま鎮圧され、処理(処刑)されたこと、第五に彼らを捨石として歴史が大きく動いたこと、以上である。

まずは、水戸の浪士たちの桜田門外の変にいたる背景をみてみよう。だいたい徳川御三家にあたる水戸藩が、なんで天皇やねん、尊王やねん、と思いたくなるのが人情であるからして、まずはこの魁偉なる「水戸学」を基とする水戸の尊王思想なるものにふれたい。
高校の参考書のたぐいでは、徳川家と天皇家とが結びついて危機に瀕した幕府の権威を保持しようとした、などというような解説がのっていた。でも、こんな上っ面の説明は何も語っていないのと同じです。
水戸藩初代藩主は徳川家康の末子(第11子)である。紀伊・尾張・水戸と御三家の一角を担うのだが、尾張62万石、紀伊55万石と比較すれば、わずか25万石で、藩主は常時江戸在府を命ぜられているので、財政は苦しい。その初代藩主の子供が、「天下の副将軍」とよばれた水戸光圀(黄門様)である。
徳川の御三家なんだから仲良くやっているのだろうという考えがそもそも誤っている。
水戸藩主は、「天下の副将軍」などと聞こえが良いが、見方をかえれば永遠に「副」で、絶対にNO1になることはできないのだ。水戸家に何らかの鬱屈が沈潜しても不思議ではない。
しかし、家康以来磐石の体制をしく将軍家に対して、別の基軸(別の価値)を打ち立てそこに新たな位置づけを行えば、水戸藩といえども将軍家を凌ぐ位置を獲得することができるかもしれない。
そう、ルサンチマン(怨念)の静謐を装った発露、それが「水戸学」であり「尊王」であったのだ。
ということは水戸の尊王とは、水戸藩に長年鬱屈を味合わせた将軍家を中心とした幕藩体制の基軸を葬り去り、新基軸の中で自分達を将軍家以上に位置づけるための藩としての「方便」、方便が少々失礼ならば、「営為」の結晶なのである。
ペリ−来航以来開国か攘夷かを迫られた井伊直弼を筆頭とする幕府が、開国に反対する尊王攘夷派を一網打尽にして処刑した安政の大獄に対する復讐劇と、桜田門外の変はみられている。確かに水戸浪士の直接の行動の引き金は、安政の大獄ということがいえそうだ。
しかし、水戸藩の「大日本史」編纂という膨大な事業をみても結局は、徳川将軍家への複雑な気持ちのあらわれであって、将軍家が天皇の許可(勅許)をえずして開国に踏み切ったことを絶好の機会として、「尊王」という新基軸の下での水戸藩の一気なる劣勢挽回の行動、と見ることはできないか。
幕末の水戸藩をこのように見るならば、それは天皇親政という新基軸の下で実権を握ろうとした2・26事件の皇道派とどこか通ずるものがある。
水戸藩が混乱期に乗じて、将軍家にかわって幕府の主導権を握ろうとしたのは、いくつかの行動からもよみとれる。まずは水戸藩士・徳川斉昭は、実子で一橋家に養子にだしていた慶喜を次期将軍としておすが、これも井伊直弼がおす幼き慶福(徳川家茂)に将軍が決定してしまう。
桜田門外の変の背景には、井伊直弼による安政の大獄ばかりではなく、将軍継嗣問題での敗北も遠因として重なっているとみてよい。
桜田門外の変に参加した18人(うち薩摩浪士1人)で、井伊をのせた駕籠の行列60人を襲撃したのである。
駕籠の中の井伊は何の抵抗を見せることもなく、首を討ち取られているが不思議であるが、初期に銃弾を撃ち込まれたのが原因であるようだ。
ところで、降りしきる雪がこの攻防を左右したといっても過言ではない。この時、行列の供方は刀や槍を柄袋で包んでおり、突然の襲撃に咄嗟にはずすこともできないままに攻め込まれている。

日本の歴史の中で一番重要な日はどの日かと聞かれたら考え込んでしまうが、一番ショッキングな日と言えば、 まちがえなく1936年2月26日だろう。何しろ当時の内閣の中枢、重臣の多くが丸ごと総勢1400人の軍人らによって自宅または別荘で殺害された日なのだから。
大正から昭和にかけて、財閥からのカネをめぐる疑獄などで足をひっぱりあいの抗争を繰り返す政党政治への失望などから、軍を中心とする国家改造により高度国防国家が構想されるようになっていた。
2・26事件を引き起こした青年将校の中には、天皇の周辺で栄達を極める重臣達と、自分達の故郷である農村の悲惨を重ね合わせ、天皇の本当の御心はそうした重臣らによって歪曲せられていると、その純真なる思いから国家改造を思い、天皇親政をもとめて行動におこしたものも多い。
2・26事件の経過の中で、青年将校達を一層悲劇的にしたのは、皇道派の中核をにぎる軍人達が、天皇の裁断によっては自らが軍の実権を握れると思ったのか、一旦は青年将校の立場を支持し理解するような態度をしめしたことである。
君達の真情は理解した、その心を天皇もきっと受け止めてくださるだろう、などという言葉を青年将校らに投げかけた点である。
青年将校らは、そのことに希望をいだき天皇の裁断を待ったのであった。
山王ホテルにたてこもる彼らに、天皇の側からの返答は、「自ら近衛兵団をひきいてこの乱を鎮圧せんと」と、天皇自ら彼らを単なる「反乱軍」という位置づけたために、彼らはすっかり行き場をうしない、あっさりと鎮圧軍に降伏したのである。そしてまもなく彼らは、刑場の露と化すのである。
ところで2・26事件の背景には、昭和のはじめの頃から燻っていた皇道派と統制派の派閥抗争があった。
当初、青年将校らは荒木貞夫陸相のわけへだてのない人間性とその政治力に期待して集まり皇道派が優勢であったのが、荒木のあまりに露骨な皇道派人事や「竹やりがあればソ連は恐れずにたらず」などといった極端な精神主義から、林銑十郎などの中堅に皇道派から離れる者もあり、かわって理知的で軍の秩序を重んじる永田鉄山を中心とした統制派が勢力を拡大していった。
しかし永田鉄山が皇道派の青年将校に殺害されるや、軍務をさえ疎かにし運動に走り下克上的風潮をさえ生み出している皇道派に批判があつまり、皇軍派はしだいに孤立化し、統制派が優位をしめるようになっていく。
2・26事件は、そうした劣勢におちいりつつあった皇道派が、一気に行動をおこし自分達の真情を訴え天皇の心をつかもうとしたものであったが、その真情と意図に反し、その行為は天皇の怒りをまねいただけで、まったくよみされることなく終結をむかえるである。
ちなみに2・26事件の首謀者が処刑になったのは代々木で、ちょうど今のNHKの102スタジオがあるあたりらしい、そのためか、このスタジオで幽霊を見たという噂が途絶えないのです。

桜田門も2・26も、反乱者達は別に雪の日を狙って実行したのではないのだが、いずれも何十年に一度の大雪に見舞われた。
その雪は、桜田門の場合には、水戸藩浪士に有利に働いた、226事件でも軍靴の音を打ち消すのに反乱軍の方に有利に働いたのではないかと思う。もっともそれは乱(変)の実行という点で有利であったにすぎない。
桜田門外の変でも2・26事件も、雪の面(おもて)に散った鮮血は、いつまでも消し去ることのない記憶として人々の心に残りつづけているのだ。