土地には固有の記憶がある。
その記憶が重なったところに今があるならば、ある場所に立った時の晴れがましさも、逆に陰鬱さも実は人間の脳髄の現象ではなく、土地そのものの記憶が発するものではないかと思ったりする。
18世紀、イギリスで「地霊」という観念が注目された。当時の美意識であるピクチュアレスクというものの中で、造形の出発点を考える言葉として用いられたそうだ。
当時のイギリスの書物の中に地霊は次のように書いてある。
「ある場所の雰囲気がそのまわりと異なっており、ある場所が神秘的な特性をもており、そして何か神秘的なできごとや悲劇的な出来事が近くの岩や木や水の流れに感性的な影響をとどめており、そして特別な場所性それ自体の精神をもつ。」
私は、何も考えずにそぞろに街を歩くが、それでも時々「土地の記憶」に出会い、ハットと思う、ことがある。そして「地霊」なるものが実際にあるのかどうかは知らないが、土地そのものの意思表示であるかのように、招き寄せるものあり、遠ざけるものあり、ということを感じてしまうのだ。

作家の森村誠一氏は、ホテルマンとして東京紀尾井町のニュ−オ−タニに勤務されていたが、そのニュ−オ−タニのすぐ前の清水谷公園は、森村氏の代表作「人間の証明」の犯行現場として設定されたが、ここは実際の犯行現場でもあるのだ
私は大学時にこの公園に行って見つけたのが、大久保利通殉難碑である。明治の三傑・大久保利通は1878年この辺りを馬車で通行中に刺客に襲われて暗殺されている。
鈴木博之氏が書いた著書「地霊」によるとここは、大久保利通を祀るいわば聖地として公園化されたのだという。そしてこの地は、もと司法研修所跡その前が中教院という施設で、神道を国教化するために教導職を育成した場所なのだ。
この地が、明治国家の実質的プランナーである大久保利通の死に場所であったことに、奇縁を感じるのである。
私がこのあたりをそぞろ歩いて歌舞伎役者の尾上松緑こと藤間豊氏の名札のある邸宅を見つけた。南側にいくと江戸城お堀端にで弁慶橋を超えると赤坂見附の交差点にでる。
要するに江戸風情をさえ感じさせる場所なのだが、江戸時代にはさぞや人通りの少ない場所だったのだろう、ラフカディオハ−ンの怪談「むじな」の舞台にもなっているくらいですから。
ところで、ホテル・ニュ−オ−タニ向かいの赤坂プリンスホテル旧館は、もともと朝鮮王朝の李王家邸宅であった。
朝鮮王朝の高宗の皇太子・李垠(イ・ウン)は、日韓併合時代のいわば「人質」として、日本で学んだが1920年、日本の皇族梨本宮家の方子と政略結婚し、ここに邸宅を構えた。戦後この地を買い取ってプリンスホテルを建てたのが、西武鉄道の創立者・堤康次郎である。
また赤坂の交差点をはさんで、堤康次郎のライバルであった東京急行電鉄(東急)の総帥五島慶太がたてた赤坂東急ホテルがあり、その傍らには長く買い手のつかなかったホテルニュ−ジャパン焼け跡があった。
さらには、226事件で決起将校が立てこもった山王ホテル跡地には、山王パ−クタワ−がたち銀行や飲食街となっている。このあたりのホテル群は、何かしら人の強力な念が交錯する場所で、近代ビル群の裏側には今なお鬼神が潜んでいるのかもしれない、と思ったりもする。
なお226事件の決起将校の処刑場は代々木のNHK102スタジオあたりです。
ところで猪瀬直樹の著書「ミカドの肖像」は、GHQによる皇室財産の制限のために、西部グル−プの総帥・堤康次郎が皇族の土地を買取り、そこにプリンスホテルを立てた経緯が描かれている。堤康次郎氏は、妾腹も含め子供は多数いたが、自分の意思を正しく継いでくれる子供がいないのが悩みだったらしく、ただ唯一、前西武鉄道社長の堤義明をその後継者とした。
妾腹の子であった堤清二は、小説家「辻井喬」とも知られ、セゾングル−プ社長としてパルコなどので現在の渋谷を築きあげたた一人といってよい。
皇族の土地といえば、現在の品川駅前の旧北白川邸跡地に東京パシフィックホテル、旧竹田宮邸跡地には西武の高輪プリンスホテルがたつ。
それにしても西武グル−プは皇室財産を買収し一等地にプリンスホテルを建てたが、なぜか池袋のサンシャイン60に隣接するプリンスホテルは、巣鴨プリズンの跡地にたっているのは、とてもとても奇異に思える。
巣鴨プリゾンは、東京裁判でのA級戦犯処刑地でもあり、こういう怨念渦巻く土地の買収には、一体どんな思惑が働いたのか、知りたいものだ。
池袋(巣鴨)プリゾンホテルなんて名前をつけたら、洒落がきいてもっと人気が出たかもしれませんね。
ついでに、池袋西口は立教大学がある以外には人々の耳目をひきつけるもは何もないと思っていたら、石田依良氏が「池袋ウエストゲ−トパ−ク」でいわば「負け組」の青春像を書き、アメリカ映画「ブレ−ドランナ−」を思わせる雰囲気のディ−ティールを描写し、ある意味、池袋はひとつの「陰の近未来」の発信地になった、というのは言い過ぎでしょうか。
近未来像といえば、人工島全体がパビリオンといってよい「お台場」を思いうかべるが、それ以外にも中央線千駄ヶ谷から青山にぬける通称「キラ−通り」というのがある。
ファッションデザイナ−のコシノジュンコ女史が、自分の最初の店があったこの通りの名前を勝手に「キラ−通り」とつけて、ことあるごとに広め、次第にこの名前が定着したらしい。現代建築家ア−トの発表場のような先端的なストリ−トです。
かつて石津謙介がVANの店を開いたところで、アイビ−ルックの発祥地でもある。
人通りはそれほど多くはなく、こちらは「陽の近未来」の予感が溢れる通りという感じだ。

数年前、山手線・広尾駅に降りたのは二つの目的があった
一つは有栖川宮記念公園で、有栖川宮熾仁といえば、皇女和宮の許婚であったのだが、公武合体策により婚約を破棄せられ、将軍家茂に嫁いだ。その有栖川宮邸あとは、現在の有栖川宮記念公園なのだ。
有栖川宮熾仁親王は、初代福岡県令ともなった人でもあり、私が住む福岡との縁もある。
広尾は、皇后の出身大学の聖心女子大学もあり、自然豊かでハイソな雰囲気漂う町である。
広尾に降りたもう一つの目的は、広尾から麻布の高台にある大使館が集まるストリ−トを歩いて六本木ヒルズへ抜ける道を歩いてみたいという期待が以前からあったからである。
歩いただけで気分が良くなるという町はいくらもあるが、この広尾から麻布の高台のル−トもかなりいい線いっている
私は、広尾と同じく月島に一度は行ってみたいと思い、10年ほど前に訪れたことがある。広尾がハイソな町であるならば、月島は労働者の町である
もともと、月島はもんじゃ焼きで代表されるような、眠たげにまどろんだ島では絶対になかった。この月島は、日本のクロッシュタットといわれた島だったそうだ。バルチック艦隊の出港地になるクロッカイトの町にいた兵士や水兵が、ロシア革命の最大の担い手となった。
このあたり一帯は石川島造船所と機械工業の工場が立ち並ぶ工業地帯で、そこで働く労働者達が多く住んでいた。ロシア革命の強い影響を受けた東大新人会の学生たちは、「ヴ・ナロ−ド(人民の中へ)」を叫んで、労働者の中に入っていこうとしたが、その拠点となったのが月島だった。
さらに東大の高野岩三郎は、月島に「労働生活調査所」をつくり、労働者の家計調査を行い、選んだフィ−ルドも月島で、調査書には調査を志願する学生を住まわせ徹底的な聞き取り調査を行った場所なのだ。
高野岩三郎は、日本で労働経済学、社会統計学を切り開いた人物であり、その兄の高野房太郎は、サンフランシスコで労働組合を学び、日本の労働組合結成の立役者となった。
高野岩三郎は、房太郎のアメリカからの仕送りでどうにか東京大学を卒業したという。月島は高野兄弟にとって学問上の、あるいは運動上の拠点となった場所なのだ

ところで、我らが福岡において思い出すところといえばスポ−ツセンタ−とその地下の「味のタウン」、今のソラリアがあったとことろです。スポ−ツセンタ−では大相撲やったり、スケ−トリンクがあったり、サ−カスまでやっていたりして、要するに自分にとっては、天神といや〜っ ココ、伝説の喫茶店「照和」も目の前だったしネ。
それなのに、ソラリアなんて、名前からしてソラゾラしいし、イムズなんてミミズみたいで気持ち悪ッ。
キャナルシティは鐘紡跡地に出来てしまったが、なんか夜ともなれば異界に足を踏みいれるような感じで面白そうだったが、今は「人工的な運河のビル」がおぼろげな光の世界に浮かんでいる。
自分が、そのさなかに生きていた風景が記憶の層の下のほうに沈んでいくのは、水没する故郷を見るようで、寂しくもある。また眼前の風景がますますよそよそしく映るのは、時代の波に乗っていないからでしょう。