作詞家の故郷


いくつかの土地には、アスリ−トの思いと人々の感動の記憶がある、そうした思いがいつしかスポ−ツの「聖地」として人々の心に留まりつづけることがある。
スポ−ツの聖地として私が思いつくのは、第一次世界対戦中、ドイツ人捕虜がサッカ−を伝えた広島の似島や、町の再生を願い「サッカ−の神様」ジ−コを招いた鹿島のサッカ−スタジアムなどではなかろうか。そこに生きたアスリ−トやそこに住む人々の格別な思いがある土地である。
ラグビ−の新日鉄釜石チ−ムがまた20年以上も前に圧倒的な強さを示していたが、私は全日本選手権で対戦した学生チ−ムの監督が言っていた言葉を思い出す。「あの人たち(釜石チ-ム)は、生活のすべてがラグビ−と一つになっている。我々にはかなわない」と。
「鉄冷え」といわれた町に住む人々の思いが新日鉄釜石チ−ムの闘志を支えていた、というよりも人々の思いが鬼神となり乗り移っていたのではないか、と思われるほどの強さだった。新日鉄釜石のラグビ−・グランドも地元の人にとっては心の「聖地」でありつづけるだろう。

私が住む福岡の地にそうした聖地を探すならば、かつての西鉄ライオンズ黄金時代の舞台となった平和台球場かと思うのであるが、ここをスポ−ツの聖地にするにはあまりにに多くの出来事に彩られてきた場所である。
平和台球場の敷地からは陶器類などが発見されていたが、九大の中山平次郎博士の予想通りに鴻臚館が発見された。
この地は古代迎賓館(鴻臚館)、福岡城(黒田藩)、陸軍第12師団歩兵第24連隊の設置と戦後の平和への祈願をこめた「平和台」という命名から、平和台球場設営という変遷をたどっている。
もし「地霊」というものがそこに住んで人々の霊が残るものとするならば、平和台の土地はなんと複雑な「霊譜」を辿っているのか、と思う。
私が住む福岡にもう一つのスポ−ツ聖地があるとするならば柳川高校のテニスコ−トであろうかと思う。
それは必ずしも松岡修三はじめ幾多の名選手を輩出したからというわけではない。この地に住んだ柳川のお姫様のテニスへの強い気持ちが形として結実した場所のように思えるからである。
柳川藩立花家の柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られた。水の利を充分に生かした平城で堀をめぐらし、扉の開閉によって城内の水が増減出来るようになっていた。1581年に龍造寺隆信によって蒲池氏は滅亡したが、豊臣秀吉に従った立花氏にこの地は与えられる。
立花氏は、関が原で西軍に味方しため一旦は転封となり、ひととき岡崎城主田中吉政がおさめることになる。しかし田中氏に跡継ぎがなく途絶えると、再び立花氏がこの地を治めることになったのである。
後、立花氏12代の居城として明治まで続いたが、1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った天守閣も一夜にして焼失し去った。
実は士族の反乱を心配した立花氏藩主と家老が士族のシンボルたるこの城に自ら火をつけたという説がある。だとするとなおさら立花家にとってこの城址に対する思いは並大抵のことではないにちがいない。そしてこの城址にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコ−トが設営されているのである。
ちなみに立花氏家老の小野氏は明治以降に有力な財界人を生み出し、ジョンレノンの妻オノヨ−コもこの小野家出身である。
柳川高校の創立者である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月高校の前身となった対月館が生まれた。その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われた。2年後、柳川高校は柳川本城町の現在地に移転した。
対月館は解体され新校舎に使われ、当主が作ったテニスコ−トの基礎であるグリ石も校舎建設のために使われた。なお対月館の名前は御花邸の中に残っている。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の所としたが、その地名から、柳川の人々は立花家のことを御花(おはな)と呼び親しんできた。
現在の建物・庭園の大部分は、明治42、3年にわたって14代の寛治によって新築されたもので、当時、大建築に流行した西洋館に大広間という明治建築を代表するものといわれている。
庭園は松涛園と称し、豊富な山石・海石を配し、280本の松の大部分は200年以上経ている。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子さんである。1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の財産税を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策であった。
立花のお姫様から人に仕える女将への転身という運命の数奇さである。実はこの文子さん学生時代はテニスの全日本チャンピオンでもあった。
文子さんは立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代には スキー、水泳が得意なモダンガールで学習院高等科のころはテニスのダブルスで全日本女子の王座についたのである。
文子さんの夫で16代当主「御花」社長も務めた和雄氏は、海軍元帥・島村 速雄の次男で学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタ−プレイヤ−との交流もあったという。和雄氏は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、まさか将来見合い結婚する相手になろうとは思いもせずしっかりとおぼえていたという。
和雄氏は、柳川の地で「川下り事業」「白秋生家保存運動」等を起こし、観光地柳川の町づくりに尽力した。文子さんも家業に専念するかたわらで、柳川ユニセフ婦人会・柳川ソロプチミストを設立、その初代会長を務めるなど、柳川女性のリーダーとしても往年のモダンぶりを発揮してきた。
和雄氏と文子さんとの間に「テニスコ−トの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子さん)とその夫・和雄氏が愛した「テニスの柳川」が世に知られていく。
スポ−ツの感動は、アスリ−ト達とそこに住む人々の思いが一体となって新たな聖地を生んでいくのかもしれない。