海老名弾正と熊本バンド


インタ−ネットの検索では、予想外の事柄とでくわし当初とは全く異なる検索ラインを辿っていることがある。
私が好きな音楽グル−プである「エグザイル」を検索していると、ロバ−ト・ハリスという人物と出会った。
何気なくその人物をクリックすると彼が、私が受験生時代に大変お世話になった 「百万人の英語」などで有名なJB・ハリス先生の息子であることが判明した。
ロバ−ト・ハリスさんの著書のタイトルが「エグザイル」であったために、私の検索に引っかかったというわけである。 ところでエグザイルというのは、日本語で「放浪者」とか「亡命者」とかいう意味であるが、確かにロバ−ト・ハリスさんはハリス先生と日本人の母との間に生まれ、世界をまたにかけて映画制作・DJ・文筆業・俳優など多彩な活動しておられ、なかなかスケ−ルの大きなエグザイルなのです。
ロバ−トさんの根底には、「楽しんだもん勝ち」という人生観があり、若き日にたまたま見た雑誌に啓発され「人生の100のリスト」を制作され、その欲望リストのクリアの為に日々邁進されていらっしゃいます。
その中には「ファッションモデルと付き合う」から「親父よりも有名になる」「刑務所に入る」「娼婦と恋をする」「氷河のオンザロックを飲む」「離婚する」「セラピ−をうける」「映画で殺し屋を演じる」「イルカと泳ぐ」「ヌ−ドモデルになる」などカゲキなものもある。
あの実直そうに見えたJBハリス先生のイメ−ジからすると、かなりアナ−キ−なジュニアなのです。
放浪者にしては、満たすべき目標(欲望)を明確にしているのはよしとしても、楽しむことになんか苦労が必要に思えて、「健康のためなら病気になってもかまわない」という健康オタクみたいでイヤです。
ロバ−トさんは自分を、「エグザイル」(放浪者)と自称するが、私が勝手に作った5段階評価の「エグザイル度数」でみると、彼がいかに世界をマタにかけたにせよ、まだどこか「帰るべき所あり」「待つ人あり」の雰囲気があるために、まだまだ甘ちょろいし本物じゃない、と評価し、「エグザイル度数」の評価は低めでせいぜい3点程度とする。
一体その評価に何の意味があるんだという声が聞こえそうですが、いちいち意味を問うのは近代人の通弊です。特別な意味なんてございません。あえていえばヒマつぶしです。
そこで、森光子の舞台の方で有名な「放浪記」の作家である林芙美子女史のエグザイル度数はどの程度にしようかと、女史の生涯を調べてみると、たとえ空間的スケ−ルは小さくても、林さんなら「5点満点」(エグザイル・ファイブ)をあげられる
彼女の心身にヘビのごとく冷んやりと巻き付いたエグザイル性からしても、林さんなら文句なしに満点。
ところで、林さんがよく使うアフォリズムめいた言葉に次のようなものがある。

宿命的放浪者
人生いたるところ木賃宿ばかり
一切合切、いつも風呂敷包みひとつ

林芙美子作「浮雲」「放浪記」などの作品では、放浪する身に沁みる哀感が物語の伴奏音となり、それが不思議と読むものを元気にしたり癒してくれるから、長く人々に愛されつづけているのだろう。
私は、林芙美子さんは北九州に縁のある郷土の作家であるぐらいは知っておりましたが、彼女が下関で誕生された経緯そのものが彼女の宿命としてのエグザイル性を最もよく表しているように思います。
林芙美子は、下関市田中町のブリキ屋の二階で生まれた。父は四国伊予の行商人で、母は九州桜島古里温泉の自炊旅館の娘・林キクである。父が行商の途中、古里温泉で母と恋仲になった。
この時、父21歳、母は36歳ですでに3人の夫をもったことのある女性であった。
キクは他国者と一緒になったというので鹿児島を追放され、二人は放浪の旅にでた。そうして下関にやてきて芙美子が生まれたのである。
しかしまもなく若い父は芸者と馴染みとなりこれを家に囲ったために、キクは怒って芙美子を連れて家を出て、北九州の炭鉱町を転々とし、行商していた沢井という男と一緒になった。新しく芙美子の養父となった沢井は実直な性格で芙美子を実子のように可愛がった。
芙美子は8歳で長崎の小学校に入学以来、養父の行商の旅に伴なわれて、木賃宿を泊まり歩く生活を続け、卒業までに十数回転校している。成績はほとんど最下位であったという。
少女時代のエポックといえば広島・尾道の小学校で資産家の息子の岡野という少年と淡い恋に陥るが、岡野が大学に入ると、芙美子は岡野との結婚を夢見て上京し、カフェの女給などしたが、結局は家族の反対もあり捨てられ、この体験が逆境の割には純情だった芙美子の性格をニヒルなものに変貌させた、といわれる。
芙美子はその後、カフェで俳優崩れの男と出会い劇団の主宰者である田辺という男を紹介を紹介され、田辺と同棲するが、田辺の女性関係が判明して3ヶ月ほどで別れる。
ただ田辺との交際を通じて、多くの詩人らのアナ−キ−・グル−プと交流をもち、結果的にはこの時期に彼女は文学的感性を磨いた、といえる。
さらにそのグル−プにいた野村という男と同棲するが、新宿の料理屋で働いた頃若い男に気に入られたのがきっかけで、野村から暴力を振るわれ、野村から逃げる途中で、昔知り合ったことのある男が本郷の旅館にいることを思い出し、男のもとへ飛び込んだ。
この男は手塚縁敏という信州出身の画家で、彼女をいたわり入り婿の形で林姓を名乗り、以来、芙美子のよき伴侶となった。

林芙美子は自身の体験談を綴った「放浪記」が1930年に刊行され大ベストセラ−となり莫大な印税がはいった。この頃から彼女はもはや「放浪記」の主人公ではなくなり、27歳にしてようやく生活も安定し豊かな気持ちでいることができた。
満州や台湾などの旅にはでることはあったが、以後彼女の人生に大きな波乱はなかったといってよい。
夫の手塚が、激しく気まぐれな芙美子を温かく包み込み、いわば女房役に徹したことが、芙美子の文学の大きな支えになっていたことは間違いない。
しかし、そうした安定を得た生活の中でも、林芙美子の視線は、なおも深く内面の「エグザイル」を見極めようとしていたようだ。
それは単なる行商における放浪ではなく、社会の底辺を流れていく庶民の女性達の心の内面にむかっていった。
戦死した夫の骨壷を抱いて売春婦に転落していく女、男の間を転々としながら私生児と別れ万引きに気を晴らす女、 最後に視力を失い頭もおかしくなってしまう美貌の娼婦、たまに出あった優しい男を事故で失う行商婦、などなど。
しょうもない男に何度も騙されながら、それでもしょうこりもなく男性に依存していかなければならない哀しい女性達の群像を描き続けたといってよい。
書くことを急いだ感さえある林芙美子の死はあまりにも突然に訪れた。1951年、心臓麻痺で急死した。
享年47歳。
心臓弁膜症の持病もあり医師からの警告もあったが、執筆の過労も重なったことが原因であったと思われる。死後、ブロンズでデスマスクがつくられた。
その3年後、母キクが87才で死去。さらにその後、愛児も15歳の時、事故で亡くなっている。
下関市田中町五穀神社近くに林芙美子生誕地碑がある。

最後に「エグザイル」という言葉で私に思い浮かんだこととは、「東電エリ−ト女性社員殺害事件」、アメリカ映画「ミスタ−グッドバ−を探して」(1977年)、あとシャネル・ファイブ(香水)のマリリン・モンロ−です。