アメリカではプラグマチズム(実用主義)という思想が生まれている。プラグマチズムは「弁証法」と同じく思想というよりも思考方法なのだ。
プラグマチズム的思考方法とは、永遠の真理などは存在しない、存在してもそれは深く問わない、ある考えが社会に対して何らかの影響力なり力をしている限りはその考えは当面真理である、というものだ。
物事が正しいか正しくないかではなく、ある目的に対してそれが役に立つか、効力を有しているかどうか、人々に行動を喚起するエ−トスがあるか否かが問われる。
プラグマティズムの思考法は、その割り切り方がとってもドライで気に入ってしまった。そしてやっぱりアメリカ的発想であることを思わせられる。
この考えは、「仮説→実験→検証」の過程をくぐりぬけ妥当ならば、当面その仮説を真とみとめてよい、という科学的な思考法にも通じる。
ところでマルクスがヘ−ゲルの「弁証法」を、社会発展法則の解明に多用したことは、つとに知れ渡っている。 というかマルクスは、玩具を喜ぶように「弁証法」と戯れている、といったほうが近い。
ただ、プラグマチックな思考法を弁証法のように社会や文化の面で適用することが、どこまで許されるのか、私にはよくわからないのですが、そういうわけで以下の話は、プラグマチズムの観点から社会思想を見てみたらどうか、という試論として受け取ってください。
例えばプラグマチズムでは、ある宗教が真理か否かは問わない、それを真理として受け入れた者たちを、結果としてよい行動に導き、人々をみちたらしめ、ひいては社会を幸福にせしめているといえるかという観点から見ることになる。
実はアメリカで生まれたプラグマテイズムはもともとは、宗教と科学を両立させようという考え方からきたものである。
またプラグマチズムの観点にたてば、法律だって、人間の経験によって判例が積み重ねられ成長していくものだから、憲法や法をを永久不変の真理であるかのごとくに考える、というのは間違いである。
少々乱暴な言い方かもしれませんが、「結果オ−ライ 嘘もホ−ベン哲学」なのです。
私がプラグマチズムの代表例として、どうしても思い浮かべるのが社会契約思想である。
社会契約思想は、イギリスのホッブズやロック、フランスのルソ−などが、ほぼ同時期に打ち出した考え方である。 そしてこれほどに「仮想的な思想」が、あれほに多くの人々を動かし、フランス革命やアメリカ独立革命をもたらしたという点で、プラグマチズムというものを想起させられるのである。

社会契約論では、まず人々が社会をつくる以前の状態、自然状態を想定し、そこで人々は自然権(生命・自由・財産)などを保有していると考える。しかし、人間が集まって暮らすようなるにつれ貧富の差なども生まれ、自然権は不安定になったり侵害されたりする。
ルソ−によれば、人間は社会をつくって暮らす場合には人々は、社会契約をむすび、自分の「自然権」を放棄するかわりに、社会の構成員全員の意志である「一般意志」によって、社会の中で自由に平等に暮らす権利を保護してもらう。 一般意志は、共同体の参加者全員がつくりあげる意志であり、個々人の固有意志とはちがう。統治者は、人々によって統治を委託されたにすぎず主権はあくまでも人々にある。
さらにロックの場合は、統治者が主権者である人々の自然権を守ろうとしないならば、それを打倒してもよい、という「革命権」を主張している。
社会契約論によって、たとえ王権といえども主権者たる人民の「信託」にあるということだから、これが市民を弾圧する王権を打倒するなり制限したりする市民革命につながっていくのだが、それにしても、社会契約論の想定する歴史的経過、自然状態→社会契約→政府(王権)、をたどって成立した国家が一体、本当にあるというのだろうか。
歴史の推移を忠実になぞろうとすれば、マルクス流に、原始社会(自然状態)→私有→階級→国家というようになろうし、市場→都市国家(市場管理者=王)→帝国という経路だったあるのだ。
だいたい自然状態から社会契約により国家が生まれるといっても、いきなり自然状態から近代国家があらわれるのならいざ知らず、途中に歴史的にあらわれた大帝国や都市国家や封建制はどう考えるんだい、ということにもなる。
要するに社会契約説は、近代国家の成立を仮想的に説明したにすぎず、いわば思考実験みたいなものなのだ。(されば、かつてのマルキシズムだって思考実験といえなくもないし、それを永久不変の発展法則と信じたところに間違いがあった。)
あえていえば、アメリカ合衆国の成立は、ますは「未開の土地」(自然状態)の開拓から、小独立国ともいえる「州の誕生」から「中央政府への権限の信託」がおこなわれて合衆国が誕生していくのだから、上記の社会契約思想と大いに符合する部分がある。
それとも社会契約思想とは、もともとアメリカの誕生への歴史的経緯を踏まえて生み出されたのだろうが。

ところでプラグマチズムは永遠不変の真理を想定しない、真理があったとしてもそれを問わない、ということだ。
プラグマティズムの観点から、物事の真理や否やではなく、一つの思想がどれほど人々を啓蒙し動かしえたという点で評価するならば、社会契約思想は、人間が考え付いた最もスケ−ルの大きな暫定的「真理」であった、とうことができそうだ。
ただ国家が契約によって成立したとするならば、その契約の理念は何度でも国民に宣伝し吹聴する必要がある。フランスの革命の旗は「自由・平等・博愛」を表している。
特にアメリカ合衆国のように移民によって成り立つ国ならば、人々は、国との約束事(契約)を守って貰わなければならない。 アメリカ合衆国であれほど長い時間をかけて選挙戦をやるのも、アメリカの国民意識の醸成に必要な時間である、ともとることができる。
社会契約は仮想であっても、社会契約思想が生んだ合衆国の理念は現実である。選挙戦とは、アメリカ国民が(間接選挙にせよ)自らの指導者を自ら選ぶということを通じて、共和制をうんだ"契約理念"の再確認期間のようなものと見ることもできないだろうか。
つまりよそ者同士が互いの絆を確かめ合う、ということだ

プラグマチズムの観点から社会契約思想を考えているうちに、私は、この国家形成の社会契約にかわるものとして、国民創世の「神話」があるのではないか、と思い至った。
人々を不幸にするものが多々あるように、幸せにするものも色々ある。その一つが神話である。
一つの民族が神話を共有することの価値ははかりしれないことだ、と思う。
ある民族がその由来を歪めることなき歴史的事実として年代記として憶えこんでも悪くはないが、そんな受験生みたいなことしても人々の心にはなかなか定着しにくい。そこで神話(物語)として共有するということは、効率的でもあり情操的にもいことだと思う。
神話は事実ではないと軽視するのは、神話の役割を理解していないからだ。神話にこそ民族のエキスが凝縮しているのだ。心理学者の中には、神話の中に民族の「無意識」を見るものもいる。
神話の形式であるからこそ、人々の心にやどり伝えられ、民族の力になりうるからだ。
その内容は厳密にいえば、すべて事実からなりたっているとはいえないが、架空のものというものではなく実際に起こった出来事とその意味を包摂し、民族の理念をしっかりと反映しているのだ。
その意味で神話は、仮想的に真実を伝えている。 しかし神話にはもう一つの側面がある。
神話の形成にはある時点で時の権力者が関わり、その権力を正統化せしめる要素を多分に含んでいるからだ。それが一つの民族の由来を内的に説明するまでなら良いのだが、その物語の中に、他の民族に対する優位性や、他者の征服を正当化する要素などを含んでいるとしたら、そうした神話は後々の災禍をもたらす危険性を孕んでいる。
プラグマチックな観点からみて、神話はたとえ仮想的であっても、人々を揺り動かす力を秘めたものである以上、大きな危険性をも秘めている、といえるだろう。