海老名弾正と熊本バンド


え〜、月の満ち欠けと野球選手の成績が関係するって本当ですか、とその時私は思った。
随分前に、月の満ち欠けと野球選手の成績の関係に言及したTV番組があった。満月の夜に好投するのは江川卓だったのを覚えている。月の夜に人間が変身するのは昔から「狼男」などの映画のモチ−フであるからして、そんなことってあるのだろう。
世の出来事は、人の意思や理性を超え、月の満ち欠けにも左右されるパトスや情念によって生み出され、信じがたい展開をしていくものだ。
こうした意想外の物事の展開に興味をそそられるうちに私は「出来事論」なるものの可能性を夢想するようになった。
例えばほんの些細な嘘がとんでもない方向に人々を追いやってしまう事件(多数の殺人事件)を描いたアメリカ映画「ファ−ゴ」は好個の素材である。事実に基づいたこの映画けっこうグットくる映画で、人々はなぜそういう方向に突き進んでいったのか、何がそろっていれば、逆に何が欠けていれば、この出来事の連鎖は止まっていたのか、などということをついつい考えさせられる内容なのです。
「風が吹けば桶屋がもうかる」、という言葉が昔からあるとおり、個々の出来事の生起は独立事象のように見えても、よくよく連鎖の糸をたどっていけば面白い展開をしているのに気がつく。
「デキゴトロジ−」なんてガクモンが成り立つかどうかわからないが、まずは「なんでそうなるの」というコマ−シャルのキャッチフレ−ズにあるような出来事をピックアップし、そうした出来事を分析パタ−ン化していったら結構面白いかも、などと思ったのです。
そういえば日本軍の敗戦を材料に失敗一般を考察した「失敗の本質」などという本もでていましたシ。
出来事の展開の類型として例えば、同時多発型・間歇温泉型・直線的連鎖型・波状的拡大型・ドミノ的無限型・単発シリスボミ型、突発性余韻型・驚天動地型、劇場的見世物型、などと思い浮かび、こんな構想自体が「突発性シリスボミ」型なのか、などと思わないでもないが、とりあえずはサンプルの蓄積をやってみようと思った。
それに一体どんな意味があるかと問われれば、例えば日中戦争やベトナム戦争が長引き泥沼化した理由を分析すれば、泥沼一般にせまれるじゃないですか、さすればいつか夫婦関係の泥沼化・親子関係の泥縄化・職場の人間関係の泥投げ化などに対処法のヒントにもなり、私もようやく世間のお役に少しは立てるのではないか、などとと思ったからです。
とりあえずは出来事論の考察対象として面白いと思った4つのケ−スを以下に提示した。なにしろ「ことはじめ」ゆえに分析するだけのコンセプトがいまだ確立しておらず、無謀な類型化になってしまったが、それでもそれぞれのケ−スは含蓄ある物事の展開をしているため、色んな他のケ−スを想起させる。
ここで最低限の定義:一連の「出来事」の集積を「事件」とよぶ。

<ケ−ス1> 世界情勢の変化や地球の片隅で起こった出来事が、個人(故人)の運命を変えうることを<ケ−ス2>とともに教えてくれる事件である。
ソビエト崩壊の過程で1992年バルト三国が独立した。日本がそのうちにリトアニアと外交関係を結ぼうとした時に、 一つの問題がもちあがった。杉原千畝という人物の存在である。
杉原千畝は、戦時中リトアニアに外交官として駐在し、日本の外務省の意向に反しビザを大量に発行して、ユダヤ人の国外脱出を助けた人物である。
杉原の功績は戦後、イスラエル本国によって顕彰され、リトアニアにも杉原の記念碑が立ちスギハラ通りという名前までもつけれていた。
しかしながら日本では戦後、外務省の命令に背いてビザを発行し続けた杉原はリストラの対象となり外務省の仕事を失い、民間の貿易会社につとめていたのである。
そういう状態ではリトアニアとの国交にも支障があろうということで、いそぎ国会においてスギハラの名誉回復が行われたのである。とはいっても杉原氏は1986年にすでに亡くなっていた。
それで故人に対する名誉回復ということになったが、その時の宮沢首相の言葉は次の通りである。
「彼の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害という、いわば極限的な局面において人道的かちつ勇気あるものだった。」
また当時の外務省の鈴木宗男政務次官が、杉原氏にた慰する50年前の外務省の処分を誤りと認め、杉原氏の遺族に対して公式に謝罪したのであった。
政府の御都合によりなされた名誉回復ではあったものの、このケ−スは、国際情勢の転回が一人の名誉回復に繋がったということで、個人の命運が世界情勢へのリンケ−ジすることを示す事例の一つである。
類型化すれば、価値を有しなかったものが世界情勢の変化により、突如、輝きを煌めかせるというパタ−ンで「世界情勢急変性・名誉回復型」とでもしておきましょう。

<ケ−ス2>世界の片隅で起こった一つの出来事が、情報から遮断された日本の山間部に不幸な出来事を引きこした事件である。
通常、アメリカ南部のアラバマ州と宮崎県の山間・土呂久の間には何かの繋がりを想像するのは難しい。
アメリカの南部アラバマ州の綿花地帯でゾウリムシによる被害がおこった。そしてそれをを食い止めるために、亜ヒ酸が農薬としての価値が見出され急速に値が上がりはじめた。
それを知った日本の一人の山師が、高千穂に近い人里はなれた山村の一角で亜ヒ酸を焼いた。その汚水が雨に混じってわずか50戸ばかりの民家がある井戸にも流れ続け、その汚染による甚大な被害は誰にも認知されることもなく半世紀が過ぎ去った。
外部の人的環境から隔絶され、この村の人々はテレビ以外に外部の情報を得る機会もなかった。
水俣やイタイイタイ病のことがテレビ中継され、この村に起きている村の人々の病状について調べた一人の老婆がいるにはいたが、彼女の声は役場までは届いたが結局は無視されそれ以上には広がることはなかった。
この村にやってきた一人の新任教諭がいた。そしてこの教諭が、この村の女性と恋に陥った。 新任教諭は自分の恋人の病気の理由を知りたくて、彼女の小学校時代の指導要録をみようとペ−ジをめくるうちに、子供達の健康ばかりではなく、家族の死亡や病気の数の多さに尋常でないものを感じとった。
この村には何か秘密があると
教諭はかつて家庭訪問をした際に、その生徒が住む集落一帯が古い廃坑地帯であったことを思い出した。 そして、この新任教諭と他の教諭の協力によってこの村の汚染の実態がようやく明らかになったのである。
大正9〜昭和16年と、一時中断の後の昭和30〜37年の約30年間、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる亜砒焼きが行われた。
 村の人々は40歳までに6割の人が亡くなり、ほとんどの家族が病人をかかえていた。公害として認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月時点)を数えている。
現代おいても、外部との交流の薄い村の中で事件はかように進行し、あまりにも長い時間の末、その姿をついに露にしたのである。もしもあの新任教師が、この村の娘に恋をしなかったならば、この村の汚染は一体どれくらい続いていたのか、などとと考えさせられる。
類型化すればこの事件、「情報遮断性・被害長期型」とでもいえるが、その前段として世界の経済情勢(亜ヒ酸高騰)と宮崎県山間部とのリンケ−ジがそこにあったことも特徴的である。

<ケ−ス3>予期せぬ事件に巻き込まれそれをつき進むうち、大きな動きのうねりの真っ只中に身をおき自らリ−ダ−に仕立て上げられてしまった感のある事例である。
アメリカの黒人による公民権運動は、バス乗車をめぐっておきている。1955年12月1日、黒人のお針子ロ−ザ・パ−クスがいつものように市バスで帰宅の途についた。
市の条例によれば、白人専用の前部座席が埋まると、後部座席の黒人は席を白人に譲らなければならなかった。その日、勤め帰りにクリスマスの買い物をして、足が疲れていたパ−クスは、あとから白人がバスに乗り込んでも席を立たなかった。白人運転手は警察を呼び、パ−クスは逮捕された。
パ−クス逮捕の知らせを受けて、市の黒人指導者は市バスの一日ボイコットを計画、前年、市内のバプテスト教会の牧師としてボストンかた着任したばかりのマルチン・ル−サ−・キングにも、協力要請の電話がかかった。
無名のキングに白羽の矢があたったのは、ボイコット運動の先頭に立つ指導者には市の黒人内部の情報に通じていない人物が必要だった。キングが運動失敗の暁には、全責任を負ってどこかに逃走できる身軽なよそ者だったからだ。つまり失敗しても追求が他におよばないということだ。
四千人を集めた決起集会でキングは原稿なしの演説を行い、屈辱と忍従にかかわって自由と正義を求める時が来た、と訴えた。 ここから公民権運動が始まっていく。
突然表舞台に立たされた男が、黒人の公民権運動の指導者としてなっていくのあるが、つまるところこの男は指導者になるべく生まれたのかも知れない。マルチン・ル−サ−・キングはこうしてこの運動と関わり突き進んでいく他はなかった。
マルチン・ル−サ−・キングを黒人の公民権運動に招き入れた運命の手は、やはりそうあるべき人間をまねき入れたように感じる。
類型化すれば、「運命招来性・以後本格型」とでもいいましょうか。そういえばニクソン大統時代にワォータ−ゲ−ト事件を解明したワシントン・ポスト紙のウッドワ−ド記者とバ−ンシュタイン記者は、取材対象に近いホワイトハウス付の政治記者ではなく、市内廻りという「部外者」であったのが幸いして情報をリ−クされ、大魚をものにすることができたといわれている。

<ケ−ス4>それまでの失敗と経験にに養われた感覚の冴えか、一瞬の閃きが運命を手繰り寄せた事例である。
一人の男がロサンゼル郊外のサンバーナーディーノの街でたまたま見たレストランが運命を変えた。
このレストランは、ハンバーグを売っており、メニューはハンバーガー、フライド・ポテト、シェイクなどわずか9種類のみであった。
客席はとり払ってあり、紙やプラスチック製の食器が使ってあった。ハンバーガーの調理は流れ作業となっていたため価格は安く客は1分以内にハンバーガーにありつくことができた。
1954年にこのレストランにレイ・クロックという一人のセールスマンが訪れたのである。
52歳のこの男は、ミルクシェイク用のミキサーを売りにきていたが、このマクドナルドという名の兄弟がきりもりする店を見たときに霊感のようなものが走った。この店がありとあらゆるアメリカの交差点に立っている様子が頭の中を駆け巡ったのである。
レイ・クロックは高校を中退し15歳から働き出し楽器店を開いたり、紙コップのセールスマンとして働いたりした。彼の閃きにはそうした経験に培われた鋭さがあったのかもしれず、彼の閃きは現実のものとなっていく。
マックとディックのマクドナルド兄弟は、その頭脳を結集してそのレストランを経営していたが、彼らは自分達の店の真価をさほど認識できなかったのかもしれないし、彼らはそれほど野心的ではなかったのかもしれない。
レイ・クロックはいとも簡単に彼らの店を全国展開する権利を買い取るのである。レイ・クロックは事業展開していく中で、マクドナルド兄弟を逆に目障りに思ったのか、サンバーナーディーノの地にあった元祖マクドナルド店の道路向かいに新たなマクドナルド店をつくり、元祖マクドナルド店をつぶしたのである。
レイ・クロックは、車からマイクで商品名をよんで注文するなどアメリカン・フリ−ウエイ−と合体した、徹底的な合理的性でマクドナルドを全米へと展開していった。
その過程でかろうじてこの兄弟の名前を商品名として使っている。ビッグ・マック・ダブルバ−ガ−、であるが、さすがにディックの名前は隠語でもあり商品名としては使えなかった。なにしろビッグ・ディック・ダブルバ−ガ−なんて、あんまりです。
レイ・クロックは、マクドナルド兄弟が作った店のコンセプトをいち早くアメリカに広め、アメリカで五本の指に入る冨を得ることになったのである。
類型化すれば、「横取り(譲り受け)事業・世界展開型」になりましょうか。そういえば世界ナンバ−ワンの資産家・ビルゲイツのマイクロソフト・ウィンドウズは、ほとんどオリジナルがないことを思い出す。
ビル・ゲイツがやったことは、コンピュ−タの基本原理の開発などではなく、だれかが考えたソフトを皆が使い易いように改良し実用化したにすぎないのだ。
その点、レイ・クロックのマクドナルドにやや似ていますね。
レイ・クロックにせよ、ケンタッキ−・フライド・チキンのカ−ネル・サンダ−スにせよ、富豪への道のスタ−トは人生のかなり遅い時期からの再出発でした。まだ遅くないかもね。