作詞家の故郷


数年前より戦後の「闇市」や「焼け跡」後にそそられ、そういう時期に近い写真やDVDを好んでを見ていた。
黒沢明監督の「酔いどれ天使」や「野良犬」であり、「どですかでん」も、それに近い。
またGIに春をうって歩いた女性達を描いた「肉体の門」であったり、映画化された松本清張の「ゼロの焦点」や水上勉「飢餓海峡」にもそういう風景がでてくる。
狭い路地にひしめく闇市にリヤカ−の往来を、怒号と嬌声に溢れた雑踏が波うち、ラジオからは美空ひばりの「東京キッド」、並木路子の「リンゴの歌」、笠置シズコの「東京ブギウギ」などの歌謡や、そして東京ロ−ズのアナウンス放送が流れていたはずだ。
この時代に魅かれた理由は、人がわき目も振らずに生きることに専念していたこと、虚飾やステイタスを剥ぎ取られ人々が明日のことだけを考えて生きていたこと、ただ生きてさえいればよい、というようなそういう割り切ったシンプルさが好きなのです。
日本と日本人がリセットされ一旦ゼロに戻った、そして大日本帝国の瓦礫を前にして人々は涙も流したが、振り出しに戻って逆にスッキリもしたという面もあったのだと思う。

当時の写真などから人間の純朴さやひたむきさが強く感じられるのであるが、他方でエゴや悪や欲望も容赦なく噴出した時代でもあったのだろう。
欠食・餓死が頻発した事実からすると、「命の輝きに満ちた」時代などという言い方はタワゴトかもしれないが、たとえ貧しくとも人々の「目の輝き」のなかに迸る命の力強さを感じられる時代なのです。
ところで戦後、焼け跡派と呼ばれる野坂昭如が書いた「ほたるの墓」は、野坂氏の実体験を元にして書かれた作品であったというから、野坂氏の体験はいかなるものか、大変気になった。
私はこの映画、定時制の生徒たちと一緒に見に行ったのですが、実は生徒にみつからぬよう、目がしらのウルウルを誤魔化すのに必死だったのです。私ばかりではなく、嗚咽を噛み殺していた教員が他に少なくとも3人はいたはずだ。
もしもこの映画が事実としたらツラスギル、何でこんな映画つくるねんホタルのバカ、と髪をかきむしったり、いろんなヨガのポ−ズをきめてみたりもしたがどうにも落ち着かず、やはり事実を確かめる他なしと書籍にあたり、随分あとになってようやく真実を知りホットした次第です。
野坂氏が、神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、幼くして死んだ妹がいたことは事実ではある。しかし野坂氏は、初恋に夢中で妹のことはほとんど気にもかけず、あずけられた親戚の家ではそれほど酷い扱いをうけたわけでもなく、家を出て防空壕で生活したという事実もない、というわけでひとまずホットした。
ただし野坂氏が「ほたるの墓」を書いた最大の動機は、氏がかまいもせずに幼くして死んだ妹に対する鎮魂の思いだったという。
ところで終戦直後、ドサクサにまぎれながら生きんがために人々が生み出したものの中で、今日に繋がるものとして、私は焼肉、パチンコ、そして地元福岡のメンタイコを思い起こした。まったく偶然ではあるが調べてみると、いずれも韓国、朝鮮と深く関係するものだった。

スケトウダラを加工して食べる食文化は、17世紀ごろ朝鮮半島で広まっていた。 福岡県朝倉出身の川原家は日韓併合後、釜山にわたり回漕業を営んでいたが、川原俊夫はその朝鮮・釜山に1913年生まれた。
20歳の時、徴兵検査をうけ、以後約11年間召集と解除の繰り返しで、沖縄戦の際には宮古島の守備隊で地獄を見て「一度は死んだ身」という意識をもった。1946年博多に戻ってきた川原夫妻は、福岡大空襲で焼け野が原になっていた中洲で、ある日「中洲市場25軒を引揚者に」という入店募集の記事をみた。
川原が開いた店ははじめ乾物食品ばかり扱っていたが、夫妻は釜山で食べたタラコの味が忘れられず、1950年ごろからキムチ風の味付けでタラコを自宅裏で漬け始めた。
「メンタイ」とは韓国語でスケトウダラのことで「明太」と書いて「ミョンテ」とよぶのだが、タラコ(スクトウダラの卵)はその子供ということで「明太子」(めんたいこ)と名付けた。
川原は「味の明太子」をつくりあげるまで、長い時間をかけて試行錯誤した。肝腎の原料のタラコの高い塩分をどうやわらげ、卵の旨みとプチプチ感を蘇らせるかに頭をいためた。何よりも原料であるスケトウダラの卵の質が良くなければならない、というのが絶対の条件だった。
結局、俊夫の目にかなったものは、北海道羅臼、稚内、釧路で水あげされ加工されたタラコだった。
最後に一番苦労したのが調味液であった。どんな調味液に、どのくらいの期間、漬け込むかによって味はきまる、いわば秘伝の味であった。
川原の店「ふくや」は食料品店としてしだいに知名度はあがっていったが、「明太子」は最初の十数年は全く売れず、売り上げにはまったくむすびつかない奇妙な存在だった。
しかし川原の中で、「明太子」の味には、いつか必ず売れるようになるという確信があった。作っては捨て、作っては捨ての連続でしだいに味に改良を積み重ねていった。やめなかったのは夫妻は釜山で食べたタラコが何よりも好きだったからに他ならない。
近所の冷泉小学校の先生達が昼ご飯のおかずにということで「明太子」を買いに来るようになり、「明太子」の味は口コミで広がっていった。1960年頃から中洲の小料理屋さん達が酒の肴に「明太子」を注文するようになった。
中洲の繁栄と呼応するかのように、開発に長い時間をかけた商品が、ある時期突然、ブレイクした。そして新幹線の博多駅開通を契機として「明太子」は全国的に知られるようになった。

大阪の有名焼肉店・食道園は、戦後最も初期に開かれた焼肉店である。この店は、日韓基本条約の裏交渉の舞台ともなったのだそうだ。また、その出自を隠してきた日本の二大スタ−、力道山(北朝鮮出身)と美空ひばり(父親が北朝鮮出身)が常連であったという。
日本の敗戦前後に在日朝鮮人の間にはじまった焼肉は、1940年代・50年代と少しずつ日本人に受け入れられるようになったが、煙一杯の店内で客層は労働者や中年男性に偏っていた。実は1960年代の半ば、食道園の無煙ロ−スタ−の導入は、焼肉店のイメ−ジを変えて客層を一気に広げるきっかけになったのである。1980年代には焼肉店はファミリ-レストラン風のチェ−ン店となっている。
ところで韓国・朝鮮にも七輪で炭火をおこし網を載せて肉を焼くやり方はあったそうだが、テ−ブルの上の鉄板で肉を焼いて食べるというやり方が始まったのは日本である。ついでにゆうと、タン塩、ユッケ(牛肉のたたき)の上に黄卵をのせたり、生センマイ(牛の第三異)を酢醤油につける食べ方もまた、日本で生まれたものである。
韓国で焼肉といえば一般にプルコギをさしていて、ジンギスカンに近く鉄鍋にタレをからませた肉を焼くというやり方である。つまり、現在の「焼肉」スタイルというのは、日本製「焼肉文化」といって過言ではない。
ただ日本製とはいっても、全国2万軒の焼肉店のおよそ9割が在日か帰化者とその子孫の経営であるという。そして今の日本にある焼肉のスタイルを作り上げたのは、こうした在日韓国人・朝鮮人と帰化人である。
だが、朝鮮民族には儒教意識の不当な表れで、飲食業や食肉業を不当にいやしむ意識があり、韓国で調理師といえば、いまだに厳しい地域差別の対象となっている韓国南西部の全羅道出身者が圧倒的に多く、日本の焼肉店で働く韓国本国人の多くも実は、全羅道出身者といわれている。
ちなみに全羅道への差別は10世紀に半島を統一した高麗王の差別政策に由来するもので、1980年の光州事件もそうした背景があってのことであるといわれている。
在日韓国人には国内差別だけではなく、民族差別も加わり子供達には、この仕事を継がせたくないという思いからなのか、長く続く焼肉店が少ない理由もそのへんに一つの理由があるらしい。

パチンコの原形は、明治末から大正にかけてアメリカから輸入されたゲ−ム盤といわれ、昭和になって「パチンコ」の名称をつけられた機械が出回るようになった。パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、日本の敗戦直後からである。 焼け跡・闇市の時代、庶民を魅了したのは、景品に出されたタバコであった。配給制で常に不足がちなタバコが、パチンコ人気沸騰のおおきな呼び水となったのである。
現在、全国のパチンコ店の年間総売りあげ額は、自動車産業の売り上げ総額の二倍近く、韓国の国内総生産額にほぼ匹敵し、平均すると日本人は一人当たり30万円近くものカネをパチンコに注ぎ込んでいるのだ。
パチンコは、いまや日本最大規模の産業となっている。そしてこの業界を動かしているのは、圧倒的に韓国・朝鮮系の人達であり、景品交換所で働いている女性は、なぜか歴史的に済州島出身者が多いのだという。
ここ数年で私の番驚きはパチンコ店の店構えの変化で、高級ホテルと見まごうものになり、かつてパチンコ店の代名詞といってよかった軍艦マ−チもすっかり聞かなくなってしまった。
そうした雰囲気の明るさにもかかわわらず脱税の噂や暴力団との関わりも含めて、相変わらず秘め事めいた要素は払拭できないでいる。
だいたい、パチンコ店で景品交換所の場所を聞いても教えてくれない。これは風俗営業法により、パチンコ店での換金が違法とみなされ、賭博同様、処罰の対象になっているためである。したがってパチンコ店と景品交換所とはまったくの無関係をよそおっているのだ。
だがしかし、パチンコ店経営はもともと在日朝鮮人や帰化人プロパ−ではなかった。戦後、日本人も闇市でもうけて、パチンコ店経営に走る人が多かったのだ。闇市では、非合法がまかりとおっており、密造・密売・横流しなどで、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に向けるものも多かったという。
だが日本人の多くが転業していく中、他に仕事がない在日韓国人・朝鮮人がしだいにパチンコ業界に残留し、業界を動かすようになったという経緯である。
パチンコ業界は、在日韓国人・朝鮮人の人々に対する厳しい就職差別の中で、廃品回収業や養豚業、焼肉店経営など限られらた領域の他で、生きていくことのできる数少ない道の一つであったということである。

焼肉業界とパチンコ業界との共通点をあげれば、第一に戦後の闇市あたりが起点となったこと、第ニに煙もうもうの世界からクリ−ンなイメ−ジへの転換をはかったこと、(もちろんタバコの煙と焼肉の煙りです。)
第三は、労働者階層から広がり大市場へと転換したこと。ホルモンという名前は「放るもん」、つまり肉のうちで捨てるものを料理としたものであるが、今日では「ホルモン焼き」としてすっかり受け入れられている。
また、外国人がパチンコに励む人々を見て、労働者が夜遅くまで働いている思い込み、感心または同情したという話はけっこう聞きます。
そして第四に、二つの業界が在日朝鮮・韓国人の苦難の歴史と歩みを共にしたことである。
このことは、敗戦まもない日本人が、美空ひばりの歌と力道山の片手チョップに、どれほど大きく力づけられたかということともに、記憶すべきことだと思うのです。