海老名弾正と熊本バンド


川面の水のせせらぎに、雲のたゆたう流れに、月の光のちらりらする照り返しに、人の心もそよそよと波うつ。 人の心も、自然うつろう山肌のように、その色合いと陰影を刻々と変えていく。
時に激しく揺れ、長い氷雪に閉ざされるが、人々は自然の遷ろいに反応し、自然に人生を託し、そこからさらに豊かなものを汲み取ってきたのだ。それが日本人だ。
それはカリフォルニアの青空の下やハワイのパイナップル畑では、けして持ち得ない繊細な心の有り様なのだ。
カリフォルニアで俳句は作れそうもないし、パイナップル畑では和歌は生まれそうにない。
江戸時代に、朱子学という儒学の一派が正学だった。朱子学を学ぶことが支配階級の証明なのだが、解説書でこの学問を手っ取り早くマスタ−しようとしたら、この学問の一体どこが孔子や孟子の教えと繋がるのかと思うほど「思弁的」「究理的」な学問なのだ。なんか違う!
そもそも「理気二元論」など、二元という発想自体が日本人の意識とは違う、日本人の感覚にはグ−・チョキ・パ−のような三元論の方が、まだおさまりがいいというのに。
こんな学問を出世するために学べねばならぬとしたら、日本人の心は、事故にあった車のマフラ−のごとくひん曲がってしまう、という危惧を私でさえ抱いた。
そして朱子学が幅をきかせている中、儒学や仏教が伝わる以前の日本人の心を探求しようとする学問、すなわち国学が起こったとしても、それはそれはとても自然なことなのだと思う。
日本の国学の大成者・本居宣長は「事に触れて動く心」つまりモノに触れて自然に動く心の状態を真心(まごころ)といい「真心」を妨げるものとして「唐意」(からごころ)をあげている。
唐意(中国の学問)は、結局「さかしらな心」つまりこうるさい利口ぶった心でもって、偽ったり飾ったりした事ばかり多いので、真心を失わせるとして、唐意はを除いた日本人本来の心に戻れといっている。
本居によれば、身の貧しく賤きをうれへず、とみ栄をねがわず、よろこばざるをよき事とする儒者たちの、ただおのが潔さという評判を貪るだけの偽りの生き方と、日本人が生まれながらにもっている「真心」を対置する。強引にあくどいことをしない限りとみ栄えを願うことは親や先祖に対する孝行であり、どこが悪いのかという。
産巣日神の御霊により、儒教的表現では「人欲も即天理」となり、もって生まれたありのままの心こそが尊いのである。
哲学者の梅原猛は日本人の基層文化はアイヌとオキナワに残っていると主張するが、オキナワで生まれた歌「花」の歌詞「泣きなさい〜 笑いなさい〜 いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ」も、本居宣長の「真心」と通じるものを感じる。
私はそうした本居宣長の「真心」論を知ってけっこうハッピーで、「真心」は日本人の「美意識」にも反映しているかと思った。

ところで日本人は生活の中に、自然をできるだけそのままの形で取り込む傾向があるようである。
その傾向は、衣食住にわたってあらゆる面にあらわれている。木造の建物と障子や襖、伊勢神宮の神殿はクギをうつことなく作られていて、料理もできるだけ天然の素材を生かしたものが多い。
床の間や庭園など自然の風景とアナロジカルなものがつくりこまれる。
かつて日本の文化を「縮み志向」としていた本があったが、こうした志向は結局は自然を小宇宙として取り込もうとした結果なのだと思う。
自然の有様をコスモス化した庭造りであり、こうした自然物を人間の生活の周辺にもちこみ鑑賞の対象にするには、人工的な加工なり作為なりを必要とするが、それをするにせよそれが目立たないようにしているのである。
昔、自然が喜ぶように(自然を殺さぬように)、つまり自然にできる限り手をつけず、自然の力、自然の勢い、自然のベクトル、自然のエスプリを尊重し、内に潜むカミガミがもっとも溌剌として働きいずる状態をいかに保ちうるかが日本人の深層意識であったかのようである。
本居宣長が、唐意といわれる儒教や仏教の学が日本人の本来の心を失わせしめるのといったように、自然を飾り作為を加えるということは、日本人の「真心」に反する、という意識があるのか。
したがってシンメトリ−(左右対称)の美は人口の美であり日本人のもともとの美意識と対極のものである。こういうのを「さかしらな美」というのはいいすぎでしょうか。
自然の中に盛大に左右対称に展開するシンメトリ−は存在しないし、日本人はむしろ、クボミ、カタムキ、ユガミ、そして「展開」ではなく「凝縮」の中に美を見出しているようだ。
伊勢神宮に行くと、屋根だけであったり仕切りだけの霊場で、そこには何もない。これは、「さかしらな心」を徹底的に排除している「真心」の場であるかのように感じる。そして何もないということはなんと神秘的なことなのだろう。そこにあるのはカミガミの揺らめきと、それを一生懸命に感じ取ろうとする自分だけなのだ。
また、真心は神々への供え物つまり「神饌」にもあらわれている。神饌には調理して備える熟餞と生のまま供える生餞がある。熟餞の調理にはマッチやガスなどは使わす、錐を回転させ摩擦でおこした神聖な火(忌み火)を使う。
生餞は、予め決められた土地で産した米・塩・野菜・鯛・海藻・清酒などが供えられる。多くの場合、一番産(初穂)で最も新鮮なものが供えられるのである。
ところで伊勢神宮ではアワビなどを供えているが、慶弔用封筒の熨斗(のし)は「のしあわび」のことで、要するに伸ばしたアワビのことで、非常に栄養価が高く長持ちすることから、中世では武士の出陣や帰陣の際の祝儀として用いられ、戦場の保存食にもなった。
「のしあわび」が長持ちすることから、江戸時代には「長生きの印」としても重宝がられ、祝辞や慶事の儀式に高価な贈答品として用いられるようになったのである。
鳥羽市国崎町では、ノシアワビ作りとそれを伊勢神宮へ献上する行事「調進」が今も伝わっている。
日本人の本来の文化は、自然に潜むカミガミと共にある「自然教」であり、仏教や儒教やキリスト教の神々が到来しても、そうしたものをいつの間にか懐深き「自然崇拝の要素」として組み込んでいる。
そういうものを自然に組みこめられるからこそ、こうした文化のつまみ食いをやっても平気でおれるのでないだろうか。 もし、それが自然教の根幹を侵食するならば、そのエキスはどこかで濾過され、残ったものは取り入んで自然教の側へと変質させてしまっているような気がする。
例えば仏教であるが、仏教はもともとインドで輪廻と解脱の哲学として発達したのだ。それが中国に伝わり「孝」の思想を取り込み、先祖崇拝の要素をもつようになった。
ところが日本に伝わると、輪廻や解脱といった仏教の最も本質的なエキスは日本仏教の中で何処か剥落しているような気がする。
日本人はもともとこの世と死後に、現生と似通った世界があると信じているのである。ただあべこべの世界で、着物を左前に着たり水にお茶を埋めたりするのが、死人のまねだといわれ親から叱られたりしてきたのだ。
仏教では、仏になるのは少数の智恵も行いも優れた人間であると考えたのに、日本人は死ねば必ず戒名がつくし、仏になることができるのである。神(仏)になれないのは、この世への執着が強い人である。そこで日本では「引導を渡す」ことが特別な意味があり、葬式の際に日本独自に通夜などを行うのは、朝方には死者の霊をあの世へと速やかに引き取ってもらうためである。
このように、日本仏教は自然崇拝を元とした土着信仰の世界観へとはるかに傾斜しているのである。

「真心」は、自然の性質を読み取り自然に伸び行く力を見極める態度でもある。
江戸の職人や醸造業は、五感をフル活用して、木目の流れなど素材を見極め、その時々の湿気や温度を敏感の読み取って、微細な調整をしながらモノつくりを行っていった。
そしてそういう感覚は現代のモノづくりの現場でも生かされており、日本人にしかできないものだとおもう。
日本人は、そういうような自然観をもっていながら、こと人づくりということに関しては、素材や生地を読み取ることもなく、あまりに「さかしら」な扱いをしているのではないのかと思う。
最近の少年犯罪を見ると、大人が期待する身も心もかたちの整った「シンメトリカルな人間」になんかなれっこないし、なりたくもない、と少年達のふしぶしの痛みの訴えのように見える。
美意識をも含む「真心」への回帰こそ、心の再生にも繋がるかとも思いますが、いかがでしょう。