作詞家の故郷


企業の基本原則は、売り上げ>費用、つまり利益を上げることである。では消費者の基本原則は、満足>代金、つまり満足の方が払ったお金よりも大きい時に、モノを買うということである。
ただし、満足を何らかの数値には表せないので、消費者の利益をはっきりとできないが、買った商品が、満足>代金である以上、そこに何らかの消費者の利益というのものが存在することは明らかだ。
満足<代金では買うはずないし、満足=代金では買おうか、買うまいか、優柔不断なハムレット状態なわけだ。
しかし、消費者の利益は、少し頭をスクリュ−すれば、完全ではないにせよある程度数値化することが可能だ。
例えば、右下がりの需要曲線上の点で、ある商品が500円の時の需要で 、100人の人が一個づつ100個買うとする、400円の時の需要が150人で150個、300円の時の需要が200人で200個、であったとする。そして価格が実際に300円に決定すれば、価格が500円払ってもこの商品を買おうとした100人は200円分の得、価格が400円でもこの商品を買おうとした人150人は100円分得したことになる。
結局、ある商品を目の前にしてその商品をもっと高くても買う可能性のある人が、ギリギリ支払える価格から現実価格をさしひいた分の利益が生じたことになる。
こうした利益を消費者余剰という。
こうしたことがおきるのは、お金に余裕がありたくさん払っても良いという人にも、せいいぱいやっと払うという人にも、商品というヤツは、平等に同じ価格で対面し、そこに一物一価の法則が成り立つからだ。
この一物一価の法則は、厳密にいえば完全に成り立つわけではない。同じコ−ラが映画館のなかとセブン・イレブンとは違うし、同じビ−ルが福岡ド−ムとご近所の橋本酒店とでは異なる。
つまり同じ商品に値段が二つついているわけだが、これは映画館と福岡ド−ムいったん入ってしまえば一時的に外にでられないという特殊条件が、二つの価格の存在を可能にしているのだ。
ところが、一物一価の法則は江戸時代までそれほど普遍的であったわけではない。反物を売っていた商人は、大名に提示する価格と下級武士に提示する価格は同じ商品でも異なっており、金持ちからは多くとり、貧しい者からはそれなりに取るという具合にしていた。
上記の話でいえば、価格を使いわけることにより「消費者余剰」を吸い取っていたということになる。それには価格が交渉(商談)できまるつまり非公開というのもポイントで、月末に掛け値をつけてのまとめての支払いが多かった。
こういう前近代的な商法を変えたのが、江戸時代の三井の越後屋(=三越)であるわけで、「現金カケ値なし」をスロ−ガンに売り上げを伸ばし近代商法の先駆けとなったのである。
商品に正札をつける店で商品を現金と引き換えに売る、という今では全くあたりまえの商法を確立したのがこの三越である。また切り売りなどを行ったのも斬新であった。
ついでにいえば三越は雨の日には、客に傘を貸し与え、その傘に三越の商標をいれるなどして宣伝広告面でも近代的であった。
三越商法は、一物一価を日本で最初に世に宣言したという意味でも画期的であり、消費者余剰の観点から見ても、消費者の利益を増すという意味では消費者主権へ一歩近づいたといえなくもない。

自由主義市場経済が進展するということは、商人と大名との価格決定というような特定のやり取りという垣根を崩していくということであろう。
そして同一基準・同一規格でものごとが進行する方向に限りなく近づいていく、つまり「一つの世界」に収束する傾向にある、というように見てよい。
特にグロ−バリゼ−ションが進行する世界では特にそれが当てはまるであろう、と思っていた。
しかしながら、私は10年ほど前に、ある中堅ス−パ−の社長である荒井伸也氏が新聞に、日本には「法人円」と「個人円」が流通しているというようなことを書いていて、そのことが、煎餅がセ−タ−の背中の脇にくっ付いたままのように気になっていた。
この荒井氏はペンネ−ム安土敏といい、社蓄という言葉を生み、伊丹十三は、氏の小説「小説ス−パ−マ−ケット」を元に「ス−パ−の女」という映画をつくった。
今日ほど自由主義市場経済が進展している時代に、「法人円」「個人円」のような二つの世界が成り立っているのは、ある意味で経済の常識を覆させられるわけだ。
社長を含む日本のサラリ−マンが交際費で使う時と、個人の生活とでは金銭感覚が三倍から五倍も違う、という。 例えば交際費でお客を接待する場合、銀座の高級クラブで一人10万円などというのもある。個人で払うならそうそう1万円を越えられない。
つまり日本には「法人円」と「個人円」が流通し、その交換レ−トは1対5、銀座の高級紳士服店の一着100万円もする服が並んでおり、こうした店が一般客を相手にしていない証拠に、日曜や祝日は休みなのである。
すわっただけで、バ−や高級料亭も同じく、会社のカネで支払う人、すなわち「法人円」を使う人間を相手にしているわけで、一流コックや板前はほとんど、そうした店に流れる。
これは上述の論に当てはめれば、同じサ−ビスや商品内容でも、会社向けと個人向けが存在し、ファジーな「一物二価」の世界が成立しているというわけである。
ただし最近では一流料亭のサ−ビスも価格にふさわしいものではなかった、という実態が明らかにされてしまった。これは今後の交際費の使い方としては吉兆とはいえない。
つまり、クラブや高級料亭も、交際費が経費として計上され税金対策にもなることからも、会社単位では相当な金が出せる(つかえ、つかえ)という条件のもとで、会社単位での消費者余剰をもぎ取っているわけだ。
昔の大名に商人たちが反物を売る際に、高額の値を提示したのとなんか共通点がありますね。
ところで、一流料亭で日々を過ごしてきた社長達は、存分に「法人円」を仕えるという立場にあり、そのポストを去れば自らの生活を「個人円」で過ごすわけだから、退職しちまったら最後、高い酒ものめず結構ミジメということはあるのかもしれない。
であるからして会長・名誉会長などに歯茎のねぎのごとくにつきたがるのも、無理からぬことではありましょうか。結局、ポストを去った後のサムシングが空虚であればあるほどそう思うのだろう。
定年後こそは第二の人生の始まりとワクワクしていたいが、そのためにも健康第一ですね。