海老名弾正と熊本バンド


アメリカのサイコサスペンス・スリラ−映画の傑作「何がジエ−ンに起こったのか」は子供の頃みた映画であったが、今でも脳裏に蘇る恐ろしい映画であった。
その昔、名子役として舞台で名を馳せた妹ジェーンは、事故のために不具となった姉と二人で、隠居生活を送っていた。訪ねる人もなくひっそりと古い屋敷にこもる孤独な日々。やがてジェ―ンの精神が少しずつ異常を見せ始める。度をこした飲酒、姉への暴力。ここでかわいそうな姉への一方的なシンパシ−がおきていくのであるが、最後にはドンデンデン返しで真実が明らかになる。妹を狂喜に至らしめた理由、それは大人になって女優として成功した姉の側にあることが明らかになっていく。

私はこの映画を、何と高村光太郎と長沼智恵子の関係についての調べるうちに思いうかべたのである。
愛の絶唱「智恵子抄」とサイコサスペンスを同列に置くなんてと顰蹙を買いそうですが、「智恵子抄」にサスペンス的要素があるというのではなく、「愛の絶唱」として世に高らかに賞賛されてあるものの裏側にある意外性は、私の中で「何がジエ−ンに起こったのか」におけるドンデン返しに近いものとして受けとめられたということである。
それ以来、私は「智恵子抄」をフィクションとはいわずとも「極度な昇華」と見るようになり、あらためて問い直した。「何が智恵子に起こったのか」と。
映画「何がジエ−ンに起こったのか」で一番怖かったのは、一方的にシンパシ−を感じる側が実はカガイ者的立場にあったという逆転の関係であったといってよい。もちろん光太郎と智恵子と関係には、カガイ者とかヒガイ者などという、そんなどぎつい関係などありようがない。
確かに二人は愛によって結ばれていた。しかし愛によって結ばれているがゆえに、詩の世界ではなく現実の世界としては様々な葛藤があり、それが芸術の高みを目指していた智恵子に多くの苦悩を与えたのである。
「智恵子抄」の中で智恵子は、だんだんきれいになったり、あどけなかったり、風にのったりする。
そして光太郎が発狂した智恵子と、海鳥達と九十九里浜の浜辺で戯れる姿に、当時大学生であった私は、正直言って泣きました。四畳半の部屋を隅々まで濡らし泣きました。鼻みずもたらしました。
光太郎は精神に異常をきたした智恵子を、他人から「きちがい」と呼ばれることにどんなにか悔しい思いをしたことだろうかと。

   私は当初、東京には本当の空がない、と東京での生活の違和感から頭を狂わせていく智恵子を光太郎が傍らで見守り支え続けたという印象をもっていた。しかし調べるうちにわかったことは光太郎の芸術家としての道の傍らにおいて、結局智恵子は置いてけぼりをくらい空転を続けてたのでないかという感を強くしたのである。
「何が智恵子に起こったのか」、つまり何が智恵子を発狂に至らしめたのか、それは芸術そのものの高みであり、夫・光太郎に芸術面で置き去られて行く焦りと苛立ちではなかったのか。
長沼智恵子は、日本で初めての女子のための最高教育機関である日本女子大学校普通予科に進学、そして新進女性画家として「青鞜」にも参加したりするような、「新しい女」であった。中途半端は大嫌い、何でも徹底してやらなければすまない女性であった
智恵子の実家の父・長沼朝吉が二人の結婚生活から4年後の1918年には亡くなり、9年後の1929年にはその実家が破産し、一家は離散する。智恵子に暗い陰が射すようになり、精神に異常のきざしが現れたのはその2年後だった。そして1932年には一度、服毒自殺をはかっている。
当然、画家としても行き詰まりの中にあり、それを「回避」するような形で光太郎と結婚したのである。それ以降、画家として表舞台に出ることはなくなってしまった。
そして芸術家同士の共棲の中で、芸術に専念していけたのは光太郎で、生活を背負って夢をあきらめたのが智恵子であった。
智恵子は、しだいに芸術家としての道を諦めざるを得ず、しだいに尊敬する光太郎の芸術家としての車輪の下にひきこまれてしまったような印象をもった。
智恵子は発狂し入院生活を送りながら、1938年52歳の時肺結核で亡くなった。この時、光太郎は55歳で、24年間の結婚生活を送ったことになる。
ある本には、西洋的近代に翻弄されかろうじて抗うことができた男と、それに抗いきれず敗れ次第に追い詰められ、壊れてしまった「新しい女」の悲劇とあった。智恵子は、陰日なたに咲いて満足できる女性でもなかったと思う。
女性精神科医が書いた「逆光の智恵子抄」には智恵子の精神分析があり、智恵子が分裂症を発症したその原因は、最愛の夫である光太郎を想うばかりに彼女が選び続けた究極の自己犠牲と抑圧によるものである、としている。「自己犠牲」と「抑圧」こそは、智恵子の分裂症に限らず、あらゆる精神病の原因といってよい、ともある。
高村光太郎は最愛の妻・智恵子を失い、山小屋で独居自炊することになった。光太郎は晩年、山の中での寂寥とした生活を理想とし、岩手県花巻市でに独居自炊の生活をしている。山小屋での冬の生活は夜具の上に雪が降り積もる状態だったという。
光太郎は詩文集「智恵子抄その後」の中で、智恵子を失うことで、かえってどこにもいる普遍的存在になった、と書いている。光太郎は妻・智恵子に山荘での生活の中で、さりげなくこう呼びかけている。
「智恵さん気に入りましたか、好きですか」と。

畑を耕し、山の中でのたった一人の生活を通じて智恵子と向き合い、語り合おうとしたのである。
 光太郎はその山荘で7年間暮らし、晴耕雨読の日々を送りながら、地元の農家の人たちとも交流を深めた。そして1952年、青森県から依頼を受け「十和田湖」への裸婦像制作のため、帰京した。その裸婦像をも妻・智恵子をモデルとし、渾身の力を込めて完成させ、それから3年後の1955年、73歳の生涯を閉じた。

光太郎・智恵子の思い出の地・九十九里浜の陽光の明るさと、「何がジエ−ンに起こったのか」の姉妹が身を寄せる海辺の光溢れるラスト・シ−ン重なりあった。
女優をめざす姉妹の相克、そして芸術家をめざす夫婦の葛藤、敗れたものは発狂に追い込まれた。
「何が智恵子に起こったのか」〜
智恵子は光太郎の唯我独尊的「道程」の傍で孤立し狂死してしまった、と解するのは夫にあまりにも酷ですか、智恵子さん。