海老名弾正と熊本バンド


大学の経済学の最初の授業で「機会費用」について学んだ。パソコンを買うには金がいる。通常費用とはこの代金のことをさすが、もう一つの隠れた費用がある。それは、その支払いによって買えたかもしれないものの価値、たとえば二泊三日の家族旅行の価値、を失ったかもしれないのでありこれも費用と考えるのである。
つまり機会費用というのは、或る選択をした結果、次に買うことを望んでいた失われた価値のことである。
我々は日常生活の中で時間の使い方など、この機会費用について自然に考えているのである。
アインシュタインは優れた物理学者であるが、物理学者であったがために音楽家として成功したかもしれない機会を失ったという見方もできる。アインシュタインほどの才能の場合は「社会的機会費用」といったほうがよいかもしれない。
会社員としてそれ相当の収入を得ている人間は、仮に才能があったとしてもリスクを犯してまでも芸術家になろうとは思わないであろう。ということは、ひょっとしたら大きな「機会」を逃しているかもしれないのだ。(せいぜい小椋佳的二足のわらじということになろう)
つまり大きな機会費用を支払って、安定を固守し続けた人生であったかもしれないのだ。
そう考えると、世界はなんと膨大な機会費用を支払っているのだろう。つまり才能を発露させる機会を眠らせているのだろう。
私がここでお話するのは、そういう心配のまったくない人達のことである。
たぶん「この男不適応につきクビ」などというありがたくない烙印をいたる所で押され続けた彼らは、機会費用が生じることもなく、ある時点で存分に才能を発露する機会に恵まれたという、誠に社会的に見て効率の高い人々なのである。
そうした三人の男をなんの脈絡もなく思いついた。
要するに彼らは、一つのことしかできない男達で或る時幸運にもそうした一つの能力に出会えたということです。

タ−ザンの話は小さい頃よりテレビでよく見た思い出がある。タ-ザンにはサザエサンの「磯の家の謎」のごとくにいくつかの謎がある。
なぜいつも髭をそりすっきりした顔で登場するのか、動物語がわかる原始の男がなぜ突然英語を解するのか、 恋人ジェ−ンはなぜいつまでもタ-ザンの子を宿さないのか、などなどである。
このタ-ザン物語の創作者はバロウズという男であった。1875年シカゴで生まれたバロウズは36歳まで不運続きであったといってよい。学校の試験はことごとく失敗、軍隊、牧場、鉄道、セ−ルスマンと次々に職につくものの首になった。適応性にかけ体も丈夫ではないというのが巷の評価だったそうだ。
鉛筆削りを売る会社の代行業をしながら文章を書き始めた。アフリカに投げ出された白人の赤ん坊がどのような人生を送るのかという空想物語であったが1912年ある雑誌で発表されると大変な人気を集めた。
映画作品ともなりバロウズは富を築いた。
まちがいなくアメリカン・ドリ−ムの実現者ではあったバロウズは世界各地を豪華船で巡り歩いたもののついに彼の小説の舞台アフリカには足を踏み入れることはなかったのは面白い。

アフリカといえば、空を飛ぶことに見せられた男、サン=テグジュペリとも縁がある。サン=テグジュペリの学校時代は、ハロウズに似ている。最初のつまずきは学校の成績で机に向っているのが嫌いだった。特に算数が苦手だった。海軍の学校を目指して3年も受験勉強をしたのに、結果は不合格だった。
モロッコでの兵役に入隊し、民間航空機の操縦免許を取得したが、フランスに帰国後は地上での仕事についた。婚約者の家族が飛行士という仕事を良い目で見ていなかったため、別の仕事を探したのである。
サン=テグジュペリは、瓦製造会社に入社したものの、そこで過ごした1年は死ぬほど退屈で、時計を見て帰れるまでの時間を計算していたという。次にトラック製造販売会社のセ−ルスマンとなった。
はじめ3ヶ月の研修期間に、機械工場でエンジンの分解の仕方をおぼえた。以後トラックを売り込むために、中部フランスを走り回ったが、あまりの単調さにうんざりして、夜は街にくりだし金を使い果たし、すぐに貧乏暮らしに戻るという生活だった。
つまり不真面目でだらしない生活をつづけ、結局トラックは1台しか売れず、自ら会社をやめた。婚約も破棄され、職もなく、何の目標もなく失意の中にあった。
考えることといえば、空のことばかりで、少しばかりの短編小説を文芸誌に発表したりしたのがせめても救いだった。
郵便航空会社の面接をうけ、まずは整備士の仕事をした。それから輸送パイロットの資格をとり、ついに理想を見だした。彼が従事した航空郵便事業は、ヨ−ロッパと南米との間で、一刻も早く通信を送り届けることを使命としている。 そのためにシステムがつくられたとはいえ、まだ性能が未熟な当時の飛行士達に、危険な夜間にも飛行することが強制される。彼らはシステムが最大の効率をもって作動するために、不可能を可能にすることが求められる。
サン=テグジュペリは危険をおかし、個人を超える偉大な事業に身をささげることに意義をみつけたといえる。
ただし当時、サン=テグジュペリのようにエリ−ト階層の出身でこうした仕事に従事するものはほとんどいなかった。 飛行に没頭する中、虚飾にみちた地上での生活にますます嫌気がさしてきた。「私は石のように不幸だ」「論争や除名や狂言に、酷く疲れてしまっている」この頃の彼の言葉である
サン=テグジュペリは1927年モロッコにある飛行場の主任に任命されるが、当時、飛行機はたびたび燃料を補給しなければ長距離飛行ができなかったので、当時飛行機が不時着したりすると現地のム−ア人たちは捕虜にしてスペイン政府に武器や金品を要求するということがおこっていた。しかしサン=テグジュペリは中継点でム−ア人の子供と親しくなったり、サハラ周辺の動物のことを教わったり、アラビア語を学んだりしたのである。星の降る村、熱砂、スナギツネ、そして砂漠の民。壮大な自然が、サン=テグジュペリの心を成長させ、のちに文学的な想像力の源泉にもなった。
降る星を見上げて暮らした1年あまりの年月は、「孤独だが、人生で一番幸せな日々だった」と、作家になってから回想している。  「星の王子さま」は第二次大戦中に、亡命先の米国ニューヨークで書かれた。しかし、月の光に輝く砂などの絵本のイメージは、こうした日々の記憶から生まれた。
帰国後、「夜間飛行」などで名声を博し、経済的にも豊かになりダンスホ−ルやナイトクラブに出入りし伴侶とも出会うものの、孤独な心は癒されることもなく、彼の心を慰めたものは結局飛行機だけしかなかったらしい。
1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため単機で出撃したが、消息を絶つ。

ジミ−大西こと大西秀明は大阪生まれの大西は小学校時代より野球に熱中し、後に巨人の桑田も所属した少年野球チ−ム八尾フレンドで活躍した。
中学校時代でも野球部で頭角を表し、スポーツ推薦で強豪の大阪商大堺高校に進学した。並み居る部員のなかで大西は特に目立つ存在ではなく、しかもベンチのサインが覚えられずにレギュラーにはなれなかった。
ヒットで出塁すると監督の身振りを一つ一つを計算してサインを読み取るのだが、大西が計算するとなぜかマイナスになってしまった。
ついにベ−スの横の地面に数字を書いて計算していると、ベンチからヤメチメ−と、監督に怒鳴られた。
野球ではこれ以上だめだと諦め、高校在学中から吉本へ入りなんば花月の舞台進行役を経てぼんちおさむに弟子入りした。
その後漫才コンビを結成するが、相方とのバランスがいつも悪くて漫才コンビは長続きすることなかったという。 しかし心根の優しい大西を明石家さんまが運転手として面倒を見てくれることになった。
そして、いくつもの一発ギャグを身に着けてテレビの出演機会が次第にふえていく。
そしてこのテレビ出演が増えたことが、誰も予想していない彼自身の画才の発見と結びついたのだから、いわば親がわりとなったさんまとの出会いは彼にとって貴重なめぐり合わせであったのだ。
あるバラエティ−番組で、芸能人の書いた絵を出して誰の絵かを当てようという企画がもちあがった。その中でいわば、お笑いネタの意味で大西にも声がかかったのである。
幾人もの芸能人の絵のなかで、司会者が軽く紹介するはずだった大西の絵に、会場はある種の驚きにつつまれた。私もこの絵をテレビで見たのであるが、ジミ−の絵は意外とハデだった。
1993年に初めて個展を開催し動物などをテーマとしたシュールな画風と鮮やかな色彩感覚で画家として注目脚光を浴び「平成の山下清」とも称された。
アメリカ、スペインで創作活動を行い、独特の画風で活躍中、モノレールのデザイン、ロサンゼルスの観光バスのペインティング、CDジャケット、切手、銀行通帳などのデザインやオブジェなど、公共作品も多く手がけ活躍の場を広げている。

「空想物語を書く男」「大空を飛ぶ男」「画を描く男」以上、人生における「機会費用」が限りなくゼロに近い、3人のお話でした。