作詞家の故郷


私が住む地区は笹丘や小笹などの竹が多く繁っていたことを思わせる地名がある。今は多くのマンションや住宅地開発のために切り開かれ、竹林の多くが失われたものの、20年ほど前にはこの地域に多くの竹林がさやさやと揺れていたのを思い出す。
朝陽に煙る竹林や夕暮れに煌く竹林、そして風び竹の葉のすれる音を聞くにつれ一瞬でも幽玄の世界に誘われたような思いがするのである。
ことのほか、落柿舎がある京都嵯峨野あたりを歩いた時など、竹こそ「簡素」や「澄明」といった日本文化のエッセンスを具象するものではないのか、と思った。スコ−ン!という竹が岩清水をうつ音でも聞こえれば神明の地にでも誘われた気にもなる。
竹林の中で耳を澄ますと、風にそよぐ竹の葉の鳴るやわらかな音が「竹の精」の語りかけのようでもあり、平安の時代の某かが竹の中に「かぐや姫」が潜んでいたという幻想を抱いたとしても不思議ではない。

日本文化の特質を「精なるもの」と内的交流(交信)する文化と捉えることは可能であろうか。
「竹の精」「花の精」「雪の精」「木の精」などなど「精なるもの」との語らいこそ、日本文化の特質であり、今日の世界的な職人技術の高さの由来なのではないか、と思う。
職人の話などを聞くと、彼らがいかに五感を使って仕事をしているかがわかる。
視覚・聴覚・味覚などを使いその日その日の温度や湿気の違いによって、微妙に技能の匙加減を変えるのである。
溶接工の中には金属の味見して見分ける人もいるし、旋盤工の中には微妙な音の違いを判別するものがいる。また塗装工の中には100分の1ミリの厚さ違いをよりわけられる人もいる。
こうした鋭敏な感性が結局は正確で寸分違わぬ究極の正確さを生んでいくのだと思う。
職人達の感性は当然プロとして研ぎ澄まされたものだが、その背景に日本人が本来持つ感性の細やかさがあると思う。 これを「精なるもの」との交流などといったらいいすぎだろうか。
古代、縄文の森で日本人はもののけを全身で感じ取りながら生きていた。自然な微妙な変化をも見逃すまいと生きてきたのだ。もっといえば自然の中に精霊の「揺らめき」さえ感じとろうしたのである。
多様な自然への対応がおのずから細やかな感受性を生んでいったのではないだろうか。
こういう交信力の優れた人として私は、木版画家の棟方志功を思い浮かべます。

日本人は思う、「精なるもの」を人手で汚してはいけない、「生」(き)のままこそが一番である、と。
「生のまま文化」の代表として私は「越前竹人形」を思い出した。
越前(福井県)は全国有数の雪国で、厳しい寒さに耐えた良質の真竹や孟宗竹に恵まれており、これらの竹を利用して籠や花器などが古くから作られている。
水上勉氏の小説「越前竹人形」によりその名が知られた越前竹人形は、真竹、孟宗竹等を使い、竹の持つ直線と曲線の美しさをそのまま取り入れ、能や歌舞伎、踊りや風俗などが情感豊かに表現している。
また竹はあらゆる植物の中でもっとも成長が早く、福を招き厄を除くものとして、門松や地鎮祭などには、無くてはならない存在である。
ところで水上勉の「越前竹人形」は、竹で人形をつくる一人の男が登場する。男は、死んだ父親がつくった竹人形の中にただならぬ情感を見出し、父親が越前の娼妓に魅かれ、人形作りに励んだことを知り、その女性を尋ねるという話である。
そうした迫真の人形つくりには、人と竹の精との「語らい」があったのではないか、ある女性に対する一途な思いが「精なるもの」と通じ合い、人と物(竹)とのコラボレ−ションで情念宿る人形が生まれたりするのではないのか、と思う。

日本人の感性にもっともフィットした「竹」は日本人の芸術性を育くんだばかりではなく、実用面においても今なお大いに素材を提供している。
私が住む地域では八女地方が「竹細工」の地として良くしられている。
こうした籠・などの工芸品は日本人の手先の細やかな器用さを直截に表現すると同時に、自然を生(き)のまま取り込もうという日本人の文化的な指向を非常によく表している。
そうえば、神社建築のなかで一本の釘も使わずに神殿を作り上げるなどの技術もこうした意識を背景に生まれてきたのではないだろうか。これぞまさに「木のみ生(き)のまま」ということだ。
愛知県豊田市足助町は竹竿作りで知られている。足助の伝統産業は、豊臣秀吉と関係が深く「矢」作りから始まったもので、1本の竹竿を作るのに半年以上かけるという。また竹カゴに貼る和紙も、手漉き和紙を使う。そして矢作り技術は最近、では日本最高峰の「竹釣竿」をうみだしている。
竹でつくった釣竿とカ−ボンでつくった釣り竿の違いは、いつか釣り名人の誰かに確かめてみたいところだ。
矢作りに対しては「弓作り」があるが、こちらは宮崎県の都城に「弓作り」の長い歴史がある。都城大弓は、鹿児島成(なり)の流れをくむ大弓で、江戸時代後期には盛んに作られていたことが記録に残っている。明治時代に入り、川内地区から来住した楠見親子が多くの弓作りの職人を養成した。豊富な原材料に恵まれたこともあり、昭和初期には、東アジアにまで製品が売られるような大産地になった。
戦後、低迷期があったが、最盛期には30人近くの弓作りの職人が活躍し、現在でもわが国で唯一の産地として竹弓の9割を生産している。
こうした伝統技術をマスターするには10年かかると言われ、完成した弓の形状には目を見張る美しさがある。 都城市の早水文化センターでは一年に一度全国弓道大会が開かれている。

弓矢を引きしぼるアスリ−ト、竹釣竿で大魚を釣り上げるフィッシャ−、神殿をつくる宮大工、一流の優れた使い手はいずれも、事物(竹や木)との「心木一体」となるまでに交信力に富んだ達人たちに違いない。