海老名弾正と熊本バンド


「国家の品格」や「派遣の品格」などという最近の売れてる本の題名を並べて、私が連想したものは聖徳太子であり遣隋使であり、そして新井白石なのです。ちとゴ−インすぎますが、かまわずゴ−イング マイ ウェイ。
遣隋使まではなんとか連想の筋道はわかっていたでけても、新井白石とはどう繋がるのか、と思われるかもしれません。
新井白石は江戸時代に正徳の治という一時代を築いた政治家です。教科書的にいうと、豊臣秀吉の朝鮮出兵により日朝関係はとても傷ついたのですが、江戸時代に朝鮮通信使を将軍の代替わりに日本におくるという形で、日朝関係は回復し、対馬を窓口として日朝間の貿易もさかんに行われるようになったのです。
幕府にあって、その朝鮮通信使の受け入れまたは処遇について対応したのが、新井白石という人なのです。
ところで朝鮮通信使は、ドハデな500名ばかりの行列を組んで福岡の相の島、下関、瀬戸内海そして、陸路・大阪から江戸へとむかうのですが、大名間のあまりの接待競争のエスカレ−トと幕府の礼をつくした接待に財政負担はまし、待遇の簡素化により、幕府財政の健全化につとめたという理解だけでは、新井白石の外交努力の意義を表層のみにとどめてしまうかもしれません。
ところで白石さん実は温厚篤実な学者というイメ−ジがあるのですが、1657年の江戸の大火の直後に生まれたために「火の児」とよばれ相当激しい性格、だったそうです。
そこで思い出すのが、屋久島に流れ着いた外国人を江戸で自ら尋問して「西洋紀聞」などという本を書いているのですが、たとえばテレビの尋問のごとく 「本当のことをいえー、吐くんだ! ギャ−オウ」などといった修羅場のごとき場面に立ちあったとも思えませんが、あれだけの情報を引き出したというのは、儒学者の西洋研究のありようとしては、少々一線を踏み越えた人物のように思えなくもないのです。
そういうわけで新井白石という人物には、学者というイメ−ジとは裏腹に、何か鬼気せまるものがただよっていたのでは、それではこの鬼気なり妖気なるものがどこかからくるのでしょうか。
一つは、同じく徳川家宣に仕えた間部詮房が、能役者あがりでありながら側用人として重要視されたのとは対照的に、学者あがりの白石はあくまでも無役であり、せいぜい「相談役」という位置づけしか与えられなかったことと、ひょっとしたら関係するかもしれませんね。

新井白石が直接に関わった朝鮮通信使は、幕府側(白石側)、朝鮮側、そして窓口となった対馬側の様々な思惑が錯綜していてなかなか面白いものです。1607年には総勢504名の朝鮮使節が徳川秀忠の二代将軍就任を祝って江戸にやってきた。この使節は駿府へも立ち寄り、家康を表敬訪問している。そして1609年に己酉条約が結ばれて交易が再開するのです。
秀吉の朝鮮出兵以前は三港において日本との貿易をみとめていたのですが、今度は釜山一港に限られ、日本の貿易商人の居住地も「倭館」だけに限られて、しかも厳しい監視下におかれて勝手に居住地から外へでることは認められずに、実際に漢城(ソウル)にまでいった日本使節もなかったのです。この辺は、朝鮮出兵の傷いまだ癒えぬというころでしょうか。
幕府は鎖国政策のなか日朝貿易は例外的に対馬藩を窓口にして認めていたが、対馬藩は、その存亡は朝鮮貿易に大きく依存していた面があり、対馬藩・家老による国書改ざんなどオチャメかつ危険な賭けにでることもあった。つまり朝鮮への従属を意味するような内容に書き換えたりして実際に発覚もしたのだが、朝鮮との交易が止まるまでには至らなかった。幕府も、日朝貿易の利益(間接的には日中貿易の利益)の大きさを認識していたのである。
ところで、中国は古代より、世界の中心でオレが オレが オレが、と叫んでいる式の世界観、を抱いており、日本の博多にあった奴国にせよ、卑弥呼が治めた邪馬台国にせよ、貢物をもって中国に挨拶にいっていったのである。そのかわりに、中国皇帝の保証つきで「国王」として認められたのです。
周辺の国は定期的に貢物をもって中国の皇帝に挨拶をしにいく「朝貢」というものがおこなわれてきたのである。
つまり東アジアの国は、中国という天界の軌道上を移動するものとされ、その秩序の中に二つの太陽の存在は許されず、さらにそうした「華夷の秩序」の中で、周辺諸国の格付け、が行われていたのである。
ところが、推古天皇(聖徳太子摂政)下で派遣された小野妹子(遣隋使)は、「国書を、日昇るところの天子より、没するところの天子に」などと、二つの天子の存在を表記したため、隋の皇帝・煬帝の激怒をかったといわれている。
この時、日本は「華夷の秩序」とは独立した小世界の存在を中国に示したことになるのだ。日朝間の交易を複雑にしている大きな要因は、朝鮮が中国を中心にした東アジア秩序の重要な一部であったことであり、日本がそうした秩序の周縁に位置していたために、問題はさらに複雑となったのである。
朝鮮使節の派遣は12回であるが、そのうち1655年以降は、新将軍の就任慶賀のためで、使節は時に江大阪から江戸まで壮麗な行列をなし、時には家康を祭る日光に参詣までもいったのである。ということは、徳川幕府には、「華夷の秩序」つまり中国中心の秩序とは違う別の小秩序の中心としての威信をそこに見せようとする意図がみられ、そういう意味で一大イベントであったのである。
一方、朝鮮側は、面接などを行って、知性・ルックスの水準の高いものを選び、「派遣の品格」を少しでも高めようとしたのだが、通信使派遣が日本優位の国内向けパ−フォ−マンスであるとは百も承知で、一方で中国との朝貢関係もある手前、朝鮮は、形式的下位が明白にならにように、中国皇帝のお墨付きのない将軍にたいしては「国王」ではなく、一段低い「大君」という言葉使いをしたのである。
そして新井白石は、そういう日中関係というグレイ・ゾ−ンのなかで朝鮮通信使との対応をせまられたのであるが、白石としては、日本の将軍が朝鮮「国王」よりも一段低い「大君」など、なんとも「火の児」白石にすればゆるしちゃおけねぇ、てなことになるわけです。
さて新井白石がやったことは、自らの将軍の威信を高めるために、衒学者的言辞を弄してまでも、通信使に将軍を「国王」と呼ばせることに成功したうえで、さらに朝鮮使節接待の簡素化というのも、結局、日本側もそこまで自らを低うする必要なしということを、態度で示したということではなかったかと思うのです。
初期の通信使は、日本側に朝鮮侵略の意図がないかという偵察の目的もあったが、日本側の歓待によりそうした警戒感も薄らいでいったであろう。なにしろ朝鮮は日本より文化的には源流・中国に近いものであるために、使節がとまる宿舎周辺には多くの人々が出入りして、儒学や医術などを多く学んだことが通信使側の記録によってよくわかる。
さて以上のような白石外交に対して、天皇をこそ国王とよぶべきであり天皇を無視したという批判もあるわけですが、天皇の皇子達が宮家が不足して僧籍にはいらざるをえないところに、白石はチャ−ンと予算(石高)をつけて「閑院宮」なる家を創設してサ−ビスもしているのです。
また朝鮮使節が日本に来た際には、日本の学者などと漢詩の創作競争が行われたようですが、白石さん、漢詩創作の上達をめざして、その修練には余念がなかったのも、「火の児」の一面であった。

さて「国家の品格」などとはあまりにも深遠なテ−マですが、そんなものは一政治家の外交力ではどうにもならないし、新井白石は交流の「手はず」としての将軍の位置づけを明瞭(将軍の格上げ)にしたに過ぎません。
「国家の品格」を国家のイメ−ジというやや表面的な観点からみるとして、戦後における「国家(日本)の品格」が世界に浸透するという場面があったとするならば、それはやはり日本が世界にむけて精巧で故障しない日本製品を作り出していったことが一番大きなことではなかったかと思います。
メイド イン ジャパンの浸透こそ、国家の品格をも変えたと思います。ただ1980年代に集中豪雨的輸出などで反日感情を高め、すっかりと「国家の品格」を貶めたということもありましたが。
ちょうど韓国ドラマが、一方でワンパタ−ンという批判もありながらも、なんと洒落たシナリオで書かれたドラマ
がいくつもつくられているのだろうかと感動し(「猟奇的な彼女」「僕の彼女を信じないでください」「私の名前はキム・サムスン」など)、韓国の国のイメ−ジまでも変えていっているのとよく似ているように思うのです。
やはり「民」による血と汗の結晶あってこその「国家の品格」ということでしょうか。