海老名弾正と熊本バンド


世の中にどう良く評価しようにもできない人というのはいる。
どこをどうさがしてもいいところが見つからないのだ。 藤原時平という人物、私が読んだ本の印象では、相当、あさましい人間としか描かれていなかった。
悪人といわれても田沼意次のように、別角度から見ると全く違った人物評価が可能なケ−スもあるのだが、その本による限りこの藤原時平には全くそれが見つからないのだ。
好敵手である菅原道真が、高潔な学者という人物像が定着している以上、道真を太宰府に追いやった張本人・藤原時平の名誉回復などはありえないのかも、とも思う。
もし、そんなことしたら天神様(死後、神格化した道真)のタタリも怖いし、すくなくとも天神様(水鏡天満宮)のお膝元の繁華街で呑んだり喰ったりして楽しんでいる福岡市民として、やってはいけないことかもしれない。
しかし番組名は伏せるがNHKのある歴史番組を見た、そのとき私の心は動いた。日本で初めて藤原時平を賛美し、賞賛し、そして顕彰する日本人になろうと
そしてキ−ボ−ドのチカラで藤原時平を菅原道真の呪縛から解きはなとうと。

「大和魂」という言葉の最古の使用例は源氏物語だという。「才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方も強う侍らめ」とある。
実は、少しあとの「大鏡」に藤原時平について「やまとだましひ」の優れた人というくだりがある。
「才」は学才つまり学問の才能、もっといえば当時の学問は中国の教養を学び取る才能であり、「漢才」といってもいいのかもしれない。
けして高いとはいえない下級貴族から刻苦勉励して難しい試験をパスしてきた菅原道真こそまさにこの「漢才」の人であった。それに対する「大和魂」というのは本来、あの特攻隊精神などとは全く無縁なもので、先天的にそなわった気働き、世渡り上手、常識的政治判断、融通の利く人生理解、などという意味です。
ところで平安時代半ばに、律令制の危機にを救ったのは、実にこの藤原時平の「やまとだましひ」だった、といっても過言ではない。
律令国家というのは土地・人民は国家のものという大前提である。男女6歳になれば土地を支給され死んだら土地は国家に収公されるのである。
国はその土地と人民から税をとるのであるが、政府の力が国の隅々までも及んでいるわけではないので、税を逃れるために逃散・浮浪し、実際に農民を動かし支配しているのは各地の有力者という現状が生まれていた。
となるといっそのこと、ある程度地方有力者の「所有と支配」を認め彼らに徴税を任せた方が、徴税も速やかにいくにちがいなという現状認識が生まれていた。
菅原道真は、讃岐の国に赴任した際にあまりの農村の貧しい実態を見るにつけ、限定的に地方有力者の所有・支配を認めるという方向で律令国家の大前提を変更しなければ、国は立ちゆかぬことを思ったのである。
だが「公地公民」という大前提を揺るがす道真の政策は、貴族達の大反発を招く。
けして高い身分ではない学者の子として超難関試験をパスしてきた道真には、高級貴族からみてあまりにも謹厳実直であり過ぎたということがあったのかもしれない。その点、江戸時代の政治家で正徳の治を行った新井白石にも通じるところがある。
道真に反発するかのように、なんの努力もなく早々と出世してきた若き藤原氏のプリンス・藤原時平に、反菅原勢力が集結しはじめた、としても不思議ではない。
この時平について、史料は「かたち美麗にして、有様も趣きあること限りなし、色めきたる人にて」と伝えている。まるで光源氏ではないか。
道真とは親子ほどに年齢の違う時平は、経験の上でも力量のうえでも菅原道真に及ぶものではなく、律令制の危機を救うべく考えた政策はある程度、地方有力者の土地・人民の所有と支配を認めようと方向性で、道真と改革路線と軌を一にしていたのであった。
しかし「漢才の人」菅原道真に対して藤原時平には、道真にはないものをもっていた。「やまとだましひ」である。そして時平は、藤原氏であったがゆえ「ひらがなの文化」になじんでいたのだ。
なにしろ藤原氏はその娘達に、天皇のお后になる教養としてひらがなによる歌詠みつまり和歌を学ばせていたので、その中で育った時平は、「ひらがな」となじむ度合いが強く、恋愛のツ−ルとしても和歌をフル活用し、プレイボ−イとしての浮き名を流していたのである。
周囲の圧力もあり道真を太宰府に流し、いまや政治の中枢を担うことになった若き時平は考えた、中国(唐)一辺倒の貴族達の意識を変えるために「ひらがな」による勅撰和歌集をつくり彼らを中国の呪縛から解放するのだ。そして完成したのが「古今和歌集」である。
905年4月18日、古今和歌集が完成した日、つまり「ひらがな」が公式に認められた日である。
古今和歌集の選者となったのは漢学から離れたいわば非主流派貴族だから身分が低い紀貫之らであった。古い和歌を集めたところ恋愛の歌ばかり、そこで選者達にお願いして恋愛以外の歌つまり旅の歌などを作らせたでのである。
藤原時平の古今和歌集を通じての意識革命は、結果から見ると成功したとみてよい。
その後4年間で財政改革に成功した。これを世に「延喜の治」という。
菅原道真が実際に収監されたのは太宰府の榎寺(筑陽高校すぐ近く)であるが、そこの石碑に漢詩で書かれた望郷の歌が残っている。59歳にして失意のうちに死を 迎えた道真だが、死後おそるべき怨霊となって日本中を席捲した。
律令国家の功労者にして「ひらがな」の唱道者・藤原時平は、そのタタリか左大臣どまりで、道真死後6年にして39歳で世を去る。

ところで、日本の歴史の中で、「文字の世界」といっても、「ひらがなの世界」と、「漢字の世界」が二元的に並立していたことは興味深いことではある。ひらがなは誰がつくったというのではなく自然とそういう書き方をする人々が多く現れたということだが、女流文学や和歌などプライベ−トな感情表現などに使われた仮の文字つまり「仮名」なのだ。
一方漢字は政治における公文書などはすべて「漢字」が使われ、こちらを「真名」とよび、男の世界(ザ・マンダム)の文字である。
そしてこの「二元的な世界」が藤原時平と菅原道真の対立の基軸の一つとなったのも興味深い。
また仮の字であった「ひらがな」に市民権をもたせたという意味でも、「やまとだましひ」に優れた藤原時平の功績は大きい。
これは、遣唐使廃止の菅原道真の功績と比べなんの遜色があろう、これこそ藤原時平の大功績ではないか、国風文化を日本に根づかせた第一の功労者は、絶対彼氏