海老名弾正と熊本バンド


劇というものは、劇場で楽しむ必要はない。そこに「見せる」ことを想定した人々と、潜在的に「見る」ことを欲する人々が存在し、何事かのアクションがおきるならば、舞台やステ−ジがないにせよ、そこは「劇化」したところなのだ。
そもそも街中(まちなか)というのは、「チラリ目線」「カメラ目線」「ヒヤリ目線」「流し目線」「熱視線」がビ−ムのごとくとびかう、寸劇の始まりの予感に満ちた結構、アッツイところなのだ。
ある種の男性や女性にしてみれば、街中は「シセンを越えて」跳びきまわる劇場みたいなところ、また時には「目で殺す」ような殺人光線みたいなものがとんでくる戦場みたいなところでもある。こういう世界って、山田詠美の小説「ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー」にとてもよく描かれている。
ステ−ジ上の劇を見る時に、人々はその劇を自分とは距離がある第三者的出来事であると認識する。
実際に、場面の悲劇性とは対照的な客席のそうした「安心感」や「距離感」こそが演劇を見る魅力の一つかもしれない。
しかし、一旦ステ−ジをとり払った時、そこに起きている出来事は、見る側をも劇を構成する一つの要素とする、つまり見せる側に取り込むわけであるから、そこに単に「見る」観客と「見せる」役者という二極分化とは違う何か新しい関係を生み出す、というのが一時期はやったアングラ演劇集団の実験であった、と認識している。
しかし何事かを「見る」「見せる」関係だけならば、学校や企業などでル−ティ−ン化しているわけだから、「劇化」がともなうのは、出来事そのもの中にかなりの「非日常性」があってのことだ。私の学生時代に以上のような発想から、あるアングラ演劇集団は街中にゲリラ的に「劇」をしかけて人々の日常を揺すぶっていた、ということを覚えている。
そういう意味でアキバのメイド喫茶などで「モエ〜」などやっているのは完璧に劇化した世界であるし、バブル期に若者が踊り狂った「ジュリアナ東京」などもそんな空間ではなかったか、と想像する。

そこで「見る」「見せる」の熱い視線の交錯する非日常的場面、というのを歴史上に探してみて、私がまず思いおこしたのが「赤穂浪士の討ち入り」であった。
赤穂浪士の討ち入りは、江戸の町人はいまか、いまか、とその時が来るのを首がロクロクビになるほど待ちわびていたという、かなり異常な状態でおきた見世物的出来事なのだ。なにしろ2年近くも待ちわびていたのですから江戸町民は「待ってました」とばかりに拍手喝采の思いでこの出来事を見ていたのである。
ということは、四十七士の討ち入りの目的は、主君のあだ討ちに加えて、そうした江戸市民(観客)の期待にもこたえる、ということでもあった。
つまり実行後の「切腹」という代償を払ってでもあだ討ちをやり遂げずでして逃げだしでもしたら、主君ばかりか江戸町民をも裏切ってしまう、というところにまでも追い詰められたディスパレ−トな四十七士ではなかったのか、と思うのです。
もっとも、あだ討ちよりも大切なものがあるという、ヘルシ−でナチュラルな「不忠臣」モノはすでに離脱しているので、最終的に残った精鋭四十七士には、そういう心配もなかったのであろうが。
ところで、この討ち入りが江戸町民に霧が晴れるような爽快さをもたらしたのには当時の時代情勢があった。
江戸の絶頂期・元禄時代、町人文化がさかえ、大衆社会というものが日本にも勃興しつつあった時代である。そして将軍の異常な動物愛護政策や柳沢吉保らの独裁的側用人政治にすっかり嫌気がさしていたのである。
そして幕府の処断に対する反抗を勇壮に行った「四十七士」の討ち入りに溜飲を下げた、ということである。
元禄14年(1701年)3月14日の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。それに対して、吉良義央には何のお咎めもなかった。
浅野は、吉良により勅旨接待をめぐる応対のあり方をめぐり、衆人の面前で叱責をうけ、恥辱をうけたことが原因であったと考えられる。家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求めたが聞き入れられず、吉良義央へのあだ討ちを決定した。
あだ討ちの噂はたえずあったのあるが、大石は、茶屋遊びなどであだ討ちを忘れたかのごときカムフラ−ジュをおこなった末に、時をみはからい吉良邸討ち入りを決行したのである。
見る江戸庶民と見られる「四十七士」という劇的関係の中、「討ち入り」という非日常性をおびたことがおきたのであるからして、その時、江戸は劇場と化した、といってもよい。
ところで映画の中で、赤穂浪士討ち入りの「演劇性」を示すワン・シ−ンがあった。四十七士の一人が討ち入りの真最中、吉良家の隣家に「しばし、お騒がせもうしまつる」などと、断りをいれるシ−ンである。その時私は、アメリカのカリフォルニアの映画館で「赤穂浪士」を見ていたのであるが、このシ−ンに対する外国人の反応(かなり笑いがおきた)がとても興味深かった。

さて「劇化」という意味でもうひとつ思い起こすのが、江戸時代におきた長崎の二十六聖人殉教の出来事である。
この殉教の26人は、長崎で捕らえられたキリシタン達ではない。京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて市中引き回しとなり、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。
幕府側の意図としては、多くの者のあつまるところで処刑を行い、「みせしめ」の効果を高めようとしたのだが、実は人目のつく長崎・西坂での処刑を希望したのは、殉教者の側であった。西坂は、JR長崎駅に近いところにあるが、それはちょうどイエス・キリストが十字架で刑死したゴルゴタの丘に似ている、というのがその理由であった。
信者達は、幕府の意図とは裏腹に殉教の姿こそは、信仰の偉大さを人々に証する絶好の機会であると考えたからである。そして殉教者達のねらいは当たったといえる。
この殉教については以下のようなエピソ−ドがある。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者は、一行の中に12歳の少年ルドビコがいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。また信者の一人は、死を目前にして群集に堂々と自分の信仰を語った。
また長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群集がそこへ集まってきていた。一行が槍に両脇を刺しぬかれて殉教した。この時、長崎は壮大な「劇場」と化していた。
 この事件の話は長崎に滞在していたルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。この報告を受けたローマ教皇は涙を流し悲しまれた。そして盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられたのである。
遺骸は死後、多くの人の手でわけられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはカトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。
ところで18世紀にイギリスのロンドンでは処刑が完全な「見世物」と化していた。罪人の中には、どんなに卑劣で浅ましい罪を犯したものであれ、処刑という場面を、ヒロイックな死をとげ名を上げる機会とするものもいたのだ。
ついでにいうと斧を振り下ろす執行人も、一撃で首を切り落とすことが腕の「見せ所」なのだが、実際はなかなかそう簡単になせる技でもなかったらしく、何度も斧を振り落としてクビを切り落とすことがしばしばだったという。これでは罪人の「晴れ舞台」でせっかく演ぜられたヒロイズムも台無しになろう、というものだろう。

人はなぜ強くなれるのか。私は案外と「演劇性」と関係があるのではないのかと、以上書きながら思ったりもするのです。(私は「赤穂浪士の忠義」や「日本二十六聖人の信仰」の偉大さを否定するつもりはありません。)
人はなぜ強くなれるのか、それは、物語の中に自分を位置づける「想像力」(=物語性)と、「見る」「見せる」関係の中で振舞える「適応性」(=演劇性)とに関係しているようにも思えるのですが、いかがでしょう。
「虚妄」などといって、人間からそうした「物語性」(または「演劇性」)を剥ぎ取ることは、人間にとってあまりにも「酷」なことのようにも思えるし、それでは、恋愛なども成立するはずもないのです。
やはり人は、無辺際の荒野をあてもなく生きることはできないし、即物的に死ぬることもできない。
人は、生も死も物語に彩られていて欲しいのだと思う、そういう生き物なのではないのでしょうか。
ただ問題は、そうした「物語性」が内なる自然から豊かに湧き上がったものなのか、それとも「国定教科書」などを媒介として、 痩せ細り狭められた土壌から意図的に生み出されたものであるのか、ということです。
気づかぬうちに、「国民総演劇集団」なーんてものになってしまうことだってあるし、過去にもあったことなのです。それがもうダイコンではなく、堂々と演じてしまうんですから、人とはカナシキものですね。