私が学生時代に働いたバイト先のラ−メン屋社長の口癖は、我々は商品を売ってるんじゃない、文化を売っているんだ、ということでした。
社長の口調からすればケンカを売っているようでしたし、私は私でヒマな時はアブラを売っていました。
確かにユニ−クなコダワリをもつラ−メン屋ではあったので、ひょっとしたら杉並周辺住民にはその店の文化志向の一端でも伝わったのでは、とは思った。
数年前にそのラ−メン屋がシオドメサイトにも進出しており、そこまでなったそのラ−メン屋の食文化のチカラは軽くはないのかもと思ったりした。
学生当時は、企業が市場を開拓するというのはわかるが企業が文化を創造するとはなんと大袈裟な、あまりにもムキダシの金もうけ主義にせいぜい覆いをかける程度のものじゃないのか、と思っていた。 しかし、企業は高品質のものをつくれば勝ち残れるという時代はとおの昔に過ぎ去った感さえある。
なぜなら、企業が文化を積極的に創造しないかぎり、社会の中でその商品の価値自体が認知されない、ということは大いにありうるからだ
アフリカで裸足で歩く原住民を見て、これでは靴は売れないと思うか、靴を売るビジネス・チャンスと思うか、という古典的問題だが、森の人々に靴を履かせるためにはまずは「靴の文化」を総合的にプロデユ−スする必要がある
それは、衣食住全般にわたって、人々の意識をかえていく気の長い作業かもしれない。
日本酒志向の時代に洋酒を売りたいならば、日本人の生活全般から洋酒文化を造りだす必要がある。
要するに企業が市場を創造するとは新たな生活文化を作り出すことだ、ということを何よりも教えてくれたのが、「サントリ−宣伝部」の男達の物語です

サントリ−宣伝部といえば、「トリスおじさん」を描いた柳原良平、それぞれ芥川賞、直木賞に輝いた開高健、そして山口瞳の両作家がいた。そして何よりもそうした俊英を集めて宣伝の梁山泊を築いたのがサントリ−社長の佐治敬三である。
確かに小さい頃から心に残るコマ−シャルとは、「トリスを飲んで人間らしくやりたいな」と「レナウン娘がワンサカ ワンサカ」と、あと「ヴァヤリ−ス」のサルが登場するコマ−シャルでしたね。
サントリ−という会社は、1899年に鳥井信治郎が大阪西区に看板をかかげ、壽屋(寿屋)を設立した。1929年4月、初めて発売したウイスキーに創業者鳥井信治郎が「サントリー」と名付けたのが現社名の由来で、これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」「鳥井」、「サントリー」とした、ということになっている。
鳥井の長男が2代目社長の佐治敬三である。
「サントリ−宣伝部」の前身「壽屋広告部」に片岡敏郎という忘れがたい宣伝マンがいた。
佐治敬三が幼い頃、広告部に遊びにいくと、片岡はウイスキ−を敬三に嗅がせ「お父上が、よくおっしゃてるよ。いい香りには、ほんのちょっとウンコの匂いが入っているって、どうだウンコの匂いするかい」、などと真顔で聞いたりする面白い人物だった。
その片岡は、開成中学から海軍兵学校への入学に失敗して郷里・静岡で3年間、投網や狩猟、読書濫読の生活を送り、上京して泉鏡花の門を叩き書生となり、1年後親戚知友間を寄食しつつ、夜はいなり寿司の屋台をひいて東京市中を彷徨、たまたまシャム(タイ)公使の知遇を得て、数年シャムで暮らすという破天荒な人物であった。
片岡は、1912年に現在の電通に入社し、その後32歳で森永製菓し生来の機略、文才を発揮しアド・ライタ−(現在のコピ−ライタ−)として注目されていた。
鳥井信治郎は、この片岡を破格の条件でヘッド・ハンティングしたのである。鳥井が創業当初よりいかに広告・宣伝を重視していたかがわかる。
さて「サントリ−宣伝部」は、開高健をぬきに語ることはできない。
社長の佐治と宣伝部の開高は、社長と社員の関係を超えて、ほとんど朋友という関係に近かった。
後に芥川賞をとり文筆の世界にはいっていた開高が、かつての上司(社長)佐治に、「あんた、ええ気持ちやろな。自分が一人で決めた味に、何千万て人間をついてこさせてるやからな。」という言葉を放ち、佐治はそれに悪びれることもなく頷いていたということを、酒席に同席していた山崎正和が書いている。
開高は宣伝部新人時代に、カメラをぶらさげて全国をドサ周りをした。昼は特約店や酒販店で話を聞き、夜はトリスバ−で取材し、トンボ帰りして記事にまとめた。
そうした記事がマスコミ各誌や酒販店向けPR誌に掲載された。
さらに佐治敬三の提唱する新しい生活文化の創造は、開高らが編集する雑誌「洋酒天国」に結実する。
洋酒天国は、1956年4月に創刊され読者の反応はきわめてよかった。毎月発行されるにつれ、「ニューヨ−カ−」のユ−モア、「エスクァイア」の気品、「プレイボ−イ」のエロティシズムを兼ね備えるなどと、途方もない評価をうけ、 出版界もこれが民間企業のPR雑誌かと驚いた。
ところでその編集者であった開高健が1958年に、27歳の若さで「裸の王様」で芥川賞をとると、佐治もそれを大変喜び、宣伝した。何よりも宣伝部が一気に花形部署に変わった
それまでサントリ−宣伝部は、自らの力を恃みとする野武士集団であり、お行儀のよい社員からみれば「奇人変人の巣窟」とみられていた。
芥川賞後に文筆を志す開高は、自分の後任者を探さざるをえなくなったのだが、ある出版社が倒産し、人に書かせるよりも自分で書きたい、と思っている人物がいた。後の直木賞作家、山口瞳である
芥川賞の開高健といいい、直木賞の山口瞳といい、それ自体がサントリ−の宣伝であったともいえる。
宣伝費がいらない宣伝に、社長が喜ばないはずはない。

佐治敬三は表現する人間を愛した。そして自ら表現する経営者だった。サントリ−財団の創設や、サントリ−ホ−ルの設立にもそれはあらわれている。
「新しきこと面白きことを見つけよう」精神の佐治敬三の懐の大きさこそは、「マスタ−ブレンダ−」(最終的な味を決める人)としての繊細で緻密な感性と相俟って、日本に新しい生活文化「洋酒文化」をもたらしたのだと思う。
佐治は常に人がひとらしく生活する暮らしを考えて、ウイスキ−をつくりウイスキ−を売ったが、そのウイスキ−については友人の山崎正和が次のように書いている。
「ウイスキ−であれワインであれ、嗜好品という商品は奇妙な商品だといえる。それは栄養にもならず、健康にも役立たず、じつは酔いという麻薬的な効果を本質とするものですらない。
酒はほのかな夢幻状態を人にもたらしながら、その中で味と香りとグラスの色を味あわせ、会話を引き立て孤独の静けさを深め、酔いの周辺というべきものを楽しませる商品である。」
佐治敬三のサジ加減は、ウイスキ−の味を創りだすだけのものではない。