「疎外」という言葉を社会科学上の言葉として使ったのはカ−ル・マルクスであろう。
それは、本来の剰余価値に与るべき労働者がその利益から除外されてされている、つまり「疎外」されているという意味に おいてである。
疎外を辞書で調べると「のけものにしてちかずけない、本来あるべきところにいない、与るべきことに与れない」といった言葉で、何も資本家による労働者の搾取以外にも様々な場面で、この言葉は当てはまりそうである。

ところで、この「疎外」という言葉の英語訳は「エイリアネ−ション」で、「エイリアン」とは異邦人を意味するが、実は人間のヘブライ語の「原罪」を意味するもこのエイリアネ−ションに近いニュアンスをもった言葉だそうだ。
人間が「善悪を知る木の実」を食べたために、神の主権のおよぶ「エデンの園」から追放されたわけだから、人間は神の主権のおよばない地上を「さすらう」わけだ
エデンの園では人間は神の意思に沿って歩んでいたので善も悪も特に意識する必要もなく、「そのまんま、よし」ということだったのだろう。
エデンの園には「悪」がなかったので善悪を判断する必要がなかったというのは間違い、なにしろ人間をだましたヘビがいたくらいですから
それにしても人間が「善悪を知る木」の実を食べたとは、どういう意味だろうか。何かしら神の主権を犯してしまったということだろうが、その代価は大きく人間は死ぬべき存在となってしまった。
「エデンの園」追放後の人間は善悪を知り、自らを主権者として生きて行かなければならないことになった。
これは幸せなように見えて、実は大変なことだった。地はイバラを生じ呪われた場所となり、自然に与えられていた食べ物を失い、人は自ら額に汗して労働に励み収穫を刈り取らなければならなくなった。
人間は、生まれながらにして「疎外者」(「エイリアン」)としてこの世の荒波を乗り越えていかなければならなくなったわけだ。
ところでふつう「人生の主権者」という言い方はあまりしないのだが、旧約聖書の「ヨブ記」という怪書を読むと、ついつい「人生の主権者」なんてことを考えさせられる。「近代知」では、人生の主権者は「このオレサマ」に決まってんじゃん、ということだろうが、「ヨブ記」は我々にまったく異なることを教えてくれる。
ヨブという神の掟を守る文句のつけようのない人間がいて、しかも富に恵まれ妻と子供達がいた。
彼は己れの徳に相応しい恵まれた生活をしていたわけだ。ところが、サタンがやってきてアイツは恵まれているから信仰があるが、恵みを奪ったらどうなるかわかりませんよ、信仰なんか捨てちゃいますよと、神に訴える。
そこで神は、なるほどソ−カと、ヨブからすべての恵みを奪いとるのである。なんちゅう神様ヤ!
ヨブは財産を失い、家族を失い、らい病のような皮膚病にもなる。町を追われゴミ捨て場に座り、陶片でカサブタを掻くという、凄まじい悲惨に落とされる。
そこで三人の友が見舞いにくる。慰めの言葉もないような状態なのだが、一人がついに口火を切る。それは、慰めのようであり、親切な忠告のようでもあるが、実は恐ろしい糾弾の言葉だった
「正しい者は必ず報われるのだから、こうなったからは、お前には隠している罪があるに違いない。この状態から逃れるには、まずそれを認めることが先決だ」という、もっともらしい言葉である。
こういう問答が他の二人の友とも繰り返され、ヨブの心はズタズタに切り裂かれるが、自分自身を呪っても絶対に神を呪わず、ヨブが次のようなことを悟った時に事態は変わる。
すべて良しも悪しきも神の手にあること、自分はどうなろうと主権は神にあり、それを心から受け入れた時に、神は旧き祝福の何倍もをヨブに与えるのである。
ヨブは「神の主権」を教えられ、最終的に心の中の「エデンの園」を回復したともいえる。
人間が何かを拠り所にして生きるかを考える時、「正義は勝つ」とか「善は報われる」とか、せいぜい 「因果応報」とか考えるが、そういうことがまったく通用しない世界(神)なのだ。
そういう意味で、ヨブ記は、人類が描くすべての「心の命題」を打ち砕いてしまう恐るべき書なのだ。

ところで「主権」というのは、一般に国家意思の最終決定者は誰か、という場合にその言葉は使われるである。 そして「主権」というものを先鋭的考えさせらる裁判というものもあった。
自衛隊の存在と憲法9条との関係を問うた長沼訴訟や、 安全保障条約と憲法9条との間の関係を問うた砂川訴訟である。最高裁判所は結局、自衛隊や安全保障条約の合憲性の判断をさけた。
裁判所の答えは「統治行為論」というもので、国の政策の根幹に関わるような問題(統治行為)は司法に馴染まない。もっと分かり易く言うと、たった15人程度の最高裁判所裁判官の判断で、自衛隊の存在如何、安全保障条約の存在如何、を判断することはできない、ということだ。
もっといえば、そんな重大なことは、国民の選挙で選ばれたつまり国民の直接の信任のある国会議員で判断してくれ、というわけである。
国の政策の根幹に関わる問題だからこそ、法の専門家による厳正なる司法判断が必要なんじゃないの、と 思わぬではないのだが、「司法に馴染まない問題」ということになると、私はこの「統治行為論」をはるかにこえて、これから登場してくる問題は、もっともっと前衛的・先鋭的・死活的なものになっていく気がしている。
それは生命倫理や生命科学に関わる問題で、「統治行為」という国の政策の根幹に関わる問題どころか、「人間存在の根幹に関わる問題」で、それこそこれを司法の場で判断してよいのか、という問題なのだ
あまりよく知られていないことであるが、旧約聖書のエデンの園には「善悪を知る木」以外に、もう一本の木が植えてある。 それは「命の木」で、聖書(創世記3章22節)には次のように記載されている。

主なる神はいわれた、「見よ、人はわれわれの一人のようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない。」
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕かされた。神は人を追い出し、エデンの東にケルビムと、回る炎の剣とをおいて、命の木の道を守らせた。


なんとまあ!この聖書の言葉でわかるように正確には、神は人間が「命の木」にふれて欲しくはないためにエデンの園を追放したのだ。「善悪を知る木」にふれて死すべきものになった人間は、さらに「命の木」にふれた時、一体どうなっていくのだろう。
将来、司法はそういう「馴染まない問題」を「神学的領域論」などをかかげて、判断を避けるかもしれないが、それでは一体誰が判断するというのか、国会か、特別な生命倫理委員会か、いずれにせよ国際的なスタンダ−ドを練ることが前提だろう。
いずれにせよ、人類は「命の木」の領域にふみこもうとしている。