10年ほど前にあるテレビ番組を見てとても驚いた。
スキ−・ジャンプの船木木選手が、憧れのフィンランドの天才ジャンパ−といわれたニッカネンを訪問する、というものであった。
その時、ニッカネンは何をしていたかというと、場末のストリップ小屋で働く芸人となっていた。
太ってかつての面影もない偉大なジャンパ−をこういう形で放送することは残酷に思えたし、何よりもそれに応じたニッカネンはよほどカネに困っていたのかと思うと、さらに悲しくもあった。
番組では、ニッカネンがどんな経過でそこに落ち着いたのかは全く語られなかった。
思い出すに「超人」や「鳥人」という言葉で賞賛されていた男が、スキ−の世界から踏み出た時に競技の世界では味わったことのない卑小さをいくらでも体験したことであろう。
たとえそれが一般人にとってあたりまえのことであったにせよ、ニッカネンにとっては耐え難いことだったかもしれないし、メダル19個の若きニッカネンが陥った傲慢さや人間関係における稚劣さがあったかもしれない。
ジャンプ台の上での全能感が大きいゆえに、日常の世界ではそうはうまくいかないストレスが重なり、彼を次第に社会的な不適応状態に追いやったかもしれない、などと想像した。
ニッカネンのことを思い出しながら私は、小説家の安岡章太郎が初期の作品「玩具」などで描いた父親の姿を思い浮かべた。
安岡氏の父親は、日本帝国陸軍の軍医であったのだが、戦争がおわり軍服を脱いで一般人に戻った時に、家の庭で不器用に鶏を飼うとても無能な人間であったことを露呈した。
安岡氏は、父親の実生活におけるそうした愚鈍さこそが、輝ける帝国陸軍の軍人の実態であったことを描き、同時に戦争の愚昧さを表白しているように思えた。

さて最近、様々なものを身体として見立てたときに、どのような見方ができるか、という「身体論」なる本をみかける。
普通、身体というと肉体を考えるが、感覚として自分の体の一部になってしまったものをも身体とするときに、いまの若者を中心にどんなことがおきているのだろうか。
例えば、コンピュ−タを毎日使用するとコンピュ−タが自分の体の一部としまったような錯覚を覚える。その他、携帯電話、スケボ−、ウォ−クマンなどもそうした意味での「身体」ということになろう。
昔の軍国教育で戦火の中、「それでもラッパを離しませんでした」という美談があったが、今日ならば大災害にも大異変にも、「それでも携帯を離しませんでした」という笑い話が実際におきそうですね。
要するに今日、肉体はヒヨワなのに身体が延長し身体の機能性がとても高まっていて、その「身体の範囲内」にいるかぎりはかなり思いどおりになるため「プチ全能感」を味わえるのです。
ゲ−ムで遊んで没我の状態にあるときは、そういう意味での充足感があるのだと思う。
では、一歩その「身体の範囲外」に出たときに、情報は受け取るばかりでなくてちゃんと発しなければならないし、自分の意思を伝えなければ相手は何もしてはくれない、相手の気持ちを察した上での働きかけが必要だし、ひいては「想定の範囲外」の事態にも対処しなければならずパニくり、ストレスをためる傾向が強まっている、といえる。
それは、ニッカネンや安岡章太郎の父親ほど極端な落差ではないにせよ、「身体内」での全能感に比例して、「身体外」の卑小さに傷つく、ということになる。
傷つけば傷つくほど、自分が多少でも全能感に浸れる「身体内」に引きこもってしまうということにもなる。

ところで身体、英語でBodyは、もともとミイラを造るときに内臓を入れる壷の呼び名からきているらしい。
その壷は頭が広がり人間の身体をかたどったものである。ついでにいえば人間の内臓のイメ−ジは、「迷路」のコンセプトを生みだしました。
Bodyは、身体ばかりではなく、団体(学生団体をStudent Body)、法人という意味もある。
大正時代に現れた天皇機関説は、国家法人説の日本版で、主権は天皇ではなく法人たる国家にあり、天皇は様々な機関の中で最高機関であるにすぎず、他の機関との繋がり(協賛や輔弼)によってはじめて機能する、という考え方である。
この考え方は、「天皇主権説」と対抗し、大正デモクラシ−を支える思想となったが、国家を法人になぞらえるなど理論上は国家の「身体性」に対応しているように思える。
それで、「国家の身体性」とは何かというと、簡単に言えば自分がその一員と感じられるという感覚のことである。
身体というのは脳の機能を通じて一応自己の意思に従うものだ。とするならば、現代は国家がその身体性を失いつつある、ということはいえないでしょうか。
国家が個人の意思に従うなどほぼありえないが、少なくとも自分達の意思が何らかの形で反映される、実現される、ということを表している。
例えば、自分達が長年はらってきた年金の記録がされていなかったり、その資金がほとんど使われない保養施設などにあてられていることなどは、官僚が個々人の意思を受け取ることもなく独善的に運用した結果であって、国家から身体性を剥ぎ取っている、ともいえる。
現場から遠い官僚主義支配下では、隅々の声は届かない分、NPOなどの動きはそうしうた声をひろい上げその活動の種類と幅を広げつつあるという事実はとりもなおさず、人々はもっと身近で軽やかな「身体性」を求めたということでしょう

最近、バ−チャル・リアリィティというのは、日常のレベルでかなり普及しているらしい。
70年代ディスコで遊ぶとか、カウボ−イになって牛を飼うとか、ヨ−ロッパのバカンス地で女の子をナンパするとか、いまや「身体」の拡張性は脳内にも見られるようになった。
脳内だけに生起する出来事は、心が傷つくことのなくしかも感情移入できるという現実感が味わえる。もっともアクション失敗などもあって「制御された失恋の痛手」なども体験できるという代物である。
こういうものは、先述の身体性の拡張と現実生活の落差の問題をさらに増幅させる可能性がある。
一方、北京オリンピックで、国家行事でさえも花火のバ−チャル映像をほどこし、歌っていると思われた少女の口パクなどを演出するなどは、新しい形での統制社会を予感させ、いままでとはまったく質の違う身体性をもつ国家が登場しつつあるのか、などと思ってしまうのである。