日本人はいつも個人を抑制する心理が働き、作為性よりも自然性を好む、つまり意図的な達成よりも自然な成就を好む傾向を好む傾向がある。
これは、誰かがリ−ダ−シップを発揮して明示的な方向づけを行うよりも、皆の意思が行き渡り自然にコンセンサスが醸成されることを良しとする傾向が強い、ということにもなる。
そういう精神風土の中にあっても、政治的場面には「強権」の発動、簡単に言うと「ウムをいわせず権力を行使する」ことは、いくらでもおこりうる。
例えば、ある事柄に特定の利害をもつものの声を無視して、公(国家)のために土地を収用する場合などで、旧くは成田空港建設反対のための三里塚闘争や沖縄の米軍軍用地の土地収用などを思い起こす。
自民党の一党独裁の期間が長かったので、審議を一切行わず(あるいは審議拒否により)に、強行採決で国の重要法案が成立することもしばしばあり、与党自民党の数に頼った「強権」を思わせる場面も多々あった。
こういう「強権」を行使すると、意思決定のコストは低くとも、意思実行のコストは高くなる、つまり強圧的な力ではかえって人が動かないことがおきうる。
一例をあげれば軍用地の土地収用に対する沖縄県知事の代理署名拒否などである。
法案がたてこんでいる国会で、法案審議は時間との戦いで、いかに重要法案であっても全体としてコンセンサスが得られるまで審議しようなどと悠長なことはいっておられない。
必要な審議をして修正があれば修正して、あとは多数決をとるだけだ。
1960年、日本の国論をわけた、日米安保条約の改定などは、国会が何万という反対する民衆に囲まれ騒然とした雰囲気の中で、参議院の議決がないままタイムリミットをむかえ自然成立したのだ
それでも日本人は伝統的に、物事を強行したり、強権を発動することは、実は性に合わないことなのだ。まして、法的根拠が曖昧であったり、よく理解できないままに、強権が発動されるならば、人々になんらかの「傷」や「恨」を残すことになる、といってよい。
強権の発動が必要な場合には、今日ほどに「説明責任」などいわれなくとも、事前でも事後でもその根拠ぐらい納得いく形で示して欲しいと思うのだ。そうでなければ後々までも遺恨が残る。
そんなことを強く思わせられるのが、1954年の造船疑獄に際して行われた法務大臣の「指揮権発動」である。それによって、海運会社より収賄の疑いのあった時の自民党幹事長や運輸大臣の捜査は実質的に打ち切られた。そんなことがどうして許されたのか、その強権発動の根拠とは一体何だったのか、と今でも思わせられるのである。

そもそも法務大臣の「指揮権」とは何か。少なくともそれは検察の長たる検事総長に対して行使されるものである。
検察は、行政権に属する法務大臣の下にあるので、法務大臣が検事総長を何らかの形で「指揮」することはおかしくはない。しかし検察が犯罪を明らかにし訴える立場として司法的な役割を公正に果たすためには、時の政党内閣(法務大臣)の恣意性によって検察権が歪められてはならないのである
そこで検察側に独立的、自律的なものが求められるため、法務大臣は個々の検事に対してではなく、検事総長のみを指揮する権限を持つものとしたのである。
つまり管轄の長として法務大臣に「指揮権」を認める一方で、司法的な役割を果たす検事総長にも自律性の余地を認めたものである。
1954年、ある有名な高利貸しより日本特殊産業社長についての告発が東京地検特捜部にあった。調査したところ日本特殊産業が山下汽船や日本海運などから多額の不正融資をうけていることがわかった。そこで日本特殊産業というのは実態のない会社であることも判明し、特別背任の疑いが強くなった。
さらに調査の過程で、山下汽船の幹部宅から、多数の政治家に対する贈賄ないし政治献金の明細を書いたと思われる暗号メモが見つかった。
検察の取り調べにあたったのは特捜1年生で当時28歳のだった後の検事総長・伊藤栄樹であった。また、検察により取調べをうけたのは後の首相になる池田勇人や佐藤栄作だった。ちなみに山下汽船の幹部には石原慎太郎の父親もいた。
この事件が政界への広がりを見せた時に、当時の法務大臣の「指揮権発動」により検察の捜査にストップがかかってしまった。
法務大臣の「指揮権発動」は吉田茂首相の意を体したもので、結局それが吉田首相辞任の大きな原因となっている。
当時、検察庁14条に認められているにもかかわらず、いままで一度も行使されたことのない「指揮権」を行使するにあたって、「智恵」を与えたものは誰だろうと取り沙汰されたが、それよりも、法務大臣の一声で汚職捜査をストップできる「指揮権発動」なる「権力の横暴」に対する不信が渦巻いていった。
しかし上述のように法務大臣の「指揮権発動」に対してそれに従うか否かは、検察の検事総長の判断ひとつなのであるから「指揮権発動」それ自体を悪と批判することはできないように思う。
検事総長の伊藤栄樹は、法務大臣の指揮権を受けたときに、従う、したがわない、辞任する、の3つの対応があるとし、後に法務大臣となった秦野章により「従わない」というのは問題だと物議をかもしたらしいが、伊藤氏は少なくとも法務大臣に盲従すべきことではないことを明言している。
さて、造船疑獄の指揮権発動の理由として当時、「事件の法律的性格と重要法案の審議に鑑みて」という抽象的説明を行い、つまり「説明責任」は充分に果たされてはいない。
「事件の法律的性格」というのは、海運会社や造船関係団体からのお金が佐藤氏個人の私腹をこやすためではなく、党の資金となっており、幹事長の立場から資金集めの役割というのは、是非は別として慣例となっており、佐藤氏自身の収賄を立件をすることが困難であったことである。
佐藤幹事長は結局、寄付の届出をしなかった政治資金規正法違反で起訴されたが、1956年の国連加盟の大赦令により免訴となっている
なお「重要法案の審議に鑑みて」というのは、「自衛隊設置法」と「防衛庁設置法」で、これはその後成立し、自衛隊が設置されることになる。
そしてこの第5次吉田内閣こそは、防衛二法ばかりではなく、教育ニ法、MSA協定、新警察法などの強行採決、警官隊導入による会期延長など、「強権内閣」を絵に描いたような内閣で、戦後日本の「逆コ−ス」を示す分岐点であり、その背後にアメリカがちらつく。
その分岐点に内閣崩壊をくい止めんとする「指揮権発動」があったのだ。
日本では政界全体を巻き込む汚職事件としては1988年のリクル−ト事件を思い起こす。
リク−ル−ト社が、未公開株の形で野党を含む議員に金をばら撒いたものであった。社長が東大で学生向けの就職情報などのミニコミ誌から出発したことでも注目を集め、結果としては今日にいたる政治改革(選挙制度改革)に対する意識を高めた、といえる。
ただし、政治家個人の倫理の問題を政治の制度の問題にスリカエタきらいがあったのも事実である。
ところで、疑獄事件といえば1976年のロッキ−ド事件を思い起こす。そしてロッキ−ド事件の時にも、「指揮権発動」はかなり変則した形で注目をあびた
大派閥の領袖・田中角栄が、航空機を選定する際にロッキ−ド社より多額の賄賂をうけたとされる事件であったが、田中の次に首相になった三木首相は、弱小派閥ではあったものの「クリ−ン三木」をかかげ、ロッキ−ド事件の解明に政治生命を賭けた。一方で、田中派を中心に「三木おろし」の動きがあった
そんな折、検事総長を名のる男から三木首相に「指揮権発動」を促すような電話がかかった。これは三木首相をおろさんとする偽電話であったことが判明したが、電話をかけたのは京都地裁の鬼頭という判事だった。
この鬼頭氏は三木首相をあやうくワナにかけようとした奇怪な人物で、国会によばれて証言することにになり、証人喚問の冒頭で、宣誓を拒否するという前代未聞のことまで行った
宣誓の結果、あとで嘘がばれたら、罪に問われるので、自分の不利になる宣誓はしないというものだったが、刑法で「黙秘権」が、自分に不利な証言をする必要はないとしているので、そんなこともアリなのかと感心してしまった。
もちろん宣誓なしで証言させてもよかったが、こういう人物のそういう証言ならば聞くに価するものは何も出てこないだろうから、結局、鬼頭氏は国会で証言をすることなく、背後にある真実は明かされなかった。

ともあれ「指揮権」発動の裏側には、かくも魑魅魍魎が蠢いている、ということがうかがえる。
ただ、「指揮権発動」に付着して政界の深海に潜むものまでもが一瞬姿を表したかに見えたのだが、その実態がつかめぬママ沈んでいってしまったようなへんなカンジ。
1974年の佐藤栄作氏のノ−ベル平和賞賞受賞に際して、国民が心底から元首相を称えようとしなかった理由の一つは、そんなヘンなカンジがいまだに尾をひいているからだと思う。